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【相良忠房1_和睦更新なぅ 】

さて実は義陽が自ら死を選んだのには、もう一つ理由が考えられる。
それは起請文の有効期限だ。


巷のサイトでは「義陽死後に島津が相良を潰そうとして、家臣らの尽力で何とか嫡男が家督を継いだ」とあります。
義陽が死んだからといって、即相良潰しなぞ不可能です。
なぜなら島津義久には、相良家を潰す「大義名分」が無いからです。

戦国時代は室町時代体制が崩れたものなので、一見は無秩序のようで秩序が残っています。
小競り合いや前哨戦、国人による代理戦争ならイザしらず、基本としては戦には「大義名分」いる。

というのは、この時代は「兵農分離」がなされてない、というのが大きいと思います。
(あとは意地とか、名を残すとか、長年の付き合いとかmixで)

「大義名分の無い戦の(or自分の得にならない)軍役」に駆り出され自領の田畑が荒廃するのは、どの国人もイヤがる。
(国人がイヤがって途中でバックレたりするんで、島津も本国を離れての長期遠征に限界出てくる)
だから戦国時代とはいえ実力に物を言わせて国人に無茶ぶりするのは、度々は出来ない。

これまでの島津による相良攻撃には、周辺諸国の国人から見て誰もが頷ける「大義名分」がある。
何故なら「島津~相良」間の和睦で、裏切るのは常に相良義陽だったからです。
戦国時代は「右の頬を撃たれたら」「相手の左の頬を張り倒す」
やらなければ、それまでの権益を失うし他の国からも舐めらる。

これまでの島津による相良領を攻略は、至極当然の流れだった。
数少ない相良サイトによると、義陽の島津降伏への条件には「阿蘇・甲斐氏攻撃の先陣を務める(出典不明)」というのがあったそうです。

義陽は甲斐宗運と戦い、立派?に戦死して条件を果たしていることになる。
それならば猶の事、島津が相良を潰す理由が無い。
恭順して数か月の戦国大名を潰すなどどなれば、動員される国人は「明日は我が身」とビビリ恐慌状態になるだろう。

島津に降伏した時の起請文・・・現物があるか知らないが、末尾には相良義陽の署名花押があるだろう。
(家老代理署名でも、それを承認するのは義陽なんだから同じこと)

つまり和睦(=実質・降伏)起請文の有効期限は、義陽が存命してる間まで・・・ということです。
それは義陽が隠居しても変わりません。
日付は現役当主時代だし、隠居が実権を握ってる例はゴマンとありますからね。

逆を言えば「義陽が現役当主である間に死ねば」「和睦起請文は時効」になるんです。
義陽死後の新当主が「阿蘇・龍造寺との間で三国間同盟」しても、それは島津への裏切りではなく、単なる外交方針の転換に過ぎません。

相良義陽が死ぬことを望んだのは「甲斐との密約隠し」だけでなく「和睦の有効期限」を「自分の死によって強制シャットダウン」させる目的があったのではないだろうか。

義陽最終回数話で私は「義陽が予め、自分を討て」と甲斐宗運に依頼していた・・・と推理しました。
義陽の依頼を、甲斐宗運は「友情からだけで承知」するような甘い男ではない筈です。

義陽戦死⇒相良新当主代替わり⇒外交方針変換⇒島津が何らかの報復措置

龍造寺南下までに少しでも時間が稼げます。

義陽&甲斐の思惑通りに相良の外交方針が変化するかは解りません。
でも「義陽が生きている限り」「島津従属の相良外交方針は有効」なんで、義陽の申し出を実行してみる価値はあるでしょう。
(義陽編の推測との整合性が・・・(._+ )☆\(-.-メ)ダマレ!)

少なくとも「義陽の死」によって「相良家には外交方針選択の自由」が生じます。

仮に「阿蘇・龍造寺・相良」の三国同盟が結ばれたとして、島津の外圧をまともに受けるのは相良家です。

キツイ・くるちぃ・崖っぷちの3K外交方針だが、まだ八代と球磨2郡があるので抵抗を続けるのは阿蘇と龍造寺のバックアップあれば不可能ではない。(理屈では)

でもって島津の肥後統一を阻み続ければ、後の「島津による豊後侵攻」も微妙だし、「九州の役」以降の九州の勢力分布図は全く違ったでしょう。


家紋・相良
(ロン様作成:相良家紋ロゴ)

島津義久も「義陽死後」に「相良の外交方針が変化」するのを畏れていました。

でもって相良家の重臣たちの決定は↓↓↓

1)新当主は義陽の嫡男10歳(現在、島津の人質として薩州家預り)
2)年が明けたら嫡男を元服させて、新当主として正式にお披露目する
3)島津の和睦(従属)方針は継続~嫡男の元服を機に和議が成立する事とする

島津義久「(ノ´▽`)ノオオオオッ♪(ホッとしたぁ)~
義久は「欣悦」し、「永々相違あるべからず」^-^ニコニコ としている

さて相良家に「VS島津主戦派」がいた(らしい)
でもって、それは亡き義陽の異母弟・頼貞を当主推戴派と =イコール じゃないか、
さらに義陽の弟・頼貞も島津との和睦に反対だったのでは? と、記事にしていました。

天正9(1581)年12月2日に義陽が戦死した哀しみも癒えぬ、同月20日。

義陽の異母弟・頼貞が家督の座を狙って挙兵するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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