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【相良義陽79_相良揃って歌合戦・前篇 】

歌合戦の出典元は三国擾乱記~作者・土持仙巌(享保年間)
えっと、日向で伊東家と争ってた土持氏が記憶に残っているでしょうか?^^;
本家の縣(あがた)土持家は、大友宗麟に滅ぼされた(耳川の戦いのちょい前)のですが、
庶流が生き残り島津家へ仕えた(最初は日新斎ジーさん)に・・と以前、記事にした・・・はず(多分)。

土持が仕えたのは、島津は島津でも分家の方で、宮之城島津家です。
で、その子孫の土持仙巌が享保年間に「宮之城記(戦国時代の事を書いた)」を書いてるのですが、
どうやら、それが幕末に再編纂されたらしいんです、んで表題「三国擾乱記」と書いたのが例の島津久光。

これ以上は解らなかった~~鹿児島県立図書館蔵~現代語訳が無ければ見れても読めん><;アウチ☆

も一つ「島津世禄記~宮之城島津家編纂」
宮之城島津家は初代が島津尚久で、4兄弟の父・貴久の異母弟(32歳で死亡)です。
で、尚久の息子が忠長~ほら、高橋紹運が玉砕した岩屋城攻めの大将です( ̄ko ̄)チイサナコエデ

岩屋城でのエピが一番知られてる忠長の経歴なんですが、その他にも活躍してます。
(全部は書き切れない)忠長の多大な功績により、宮之城島津家は分家の中でも「格別の家」として扱われてたんです。

それだけでなく宮之城は暗君無しの島津家に相応しく、累代優れた人材を輩出してまして、
特に初代藩主・忠恒と2代藩主・光久の業績を支えた名家老を出しました(日新斎ジーちゃんのDNAパネェ!)

えっと、一行で語るのは絶対無理な政治事情で、島津宗家とは2重・3重の婚姻関係を結んだ分家VIP。
んで、宮之城島津家は史書編纂に熱心で「島津世禄記」を作らせたんです^^
そういう家に仕えていたから、土持仙巌氏のような人物が出たかもですね^-^


親指武蔵の新納忠元で有名な水俣城攻撃。

でも知名度だけが突出してまして、肝心の中身が資料少ない_| ̄|○ il||li がくぅ
とりあえず解ってる範囲で記事をまとめますね^-^

で、新納が有名すぎて霞んでますが、島津家分家筆頭の薩州家、島津義虎も先陣を務めてます。
で、新納の猛攻が凄すぎて霞んでますが、水俣城攻めでの島津義虎の功績も大きなものでした^-^

地図・天草関連

島津義虎の本拠地は出水城で、水俣城のすぐ近く。
相良は薩州家からの軍事的圧力を受けてて、天草諸島の一部である長島を奪われています。

もちろん水俣城攻めにおける軍功で新納に及ぶ者はいませんが、島津義虎は存在そのものが功績でした。
なぜなら、
島津当主・義久の長女が妻で、
分家筆頭の地位にいる島津義虎に、
近隣の豪族たちが次々と配下になることを申し出たからです。

隣国の日向国は伊東が没落し大友も敗れ、島津勢力圏となった。
大隅国大口城も島津に攻略された。
天草諸島は天草氏が、相良に見切りを付けて島津配下に。
国人の城氏・名和氏が島津サイドで、龍造寺サイドだった合志氏も島津に降伏。

見渡す限りが島津色~~~泣けて来るんで、これ以上は詳しく書くのが忍びない~~

周囲が敵だらけになった相良が、水俣城を失ったら降伏するしかなくなるんです
肥後国内において、相良家の味方は阿蘇氏のみ。

天正9(1581)年春、その阿蘇氏は縁戚関係だった大友に見切りを付けて、龍造寺に人質を送った(誰を送ったか未確認)
龍造寺家文書ーーー龍造寺隆信覚書によると
一 (甲斐)宗運此方同意之事

とあるので、阿蘇家筆頭家老・甲斐宗運と龍造寺隆信との間で合意があったようだ。

それが出来るのは阿蘇の地理的位置の(相良領というワンクッションがある)お蔭だ。
阿蘇と同じことをするには、相良領は島津領に近接しすぎている。

頼みの綱である龍造寺が、海路はるばる兵を率いて(隆信本人は来てない)肥後に来たのが天正9(1581)年。
この対陣が天正9(1581)年の何月からスタートかは不明なのだが、自分は水俣城落城以降ではないかと推測している。

もし相良が力尽きて降伏する前に、龍造寺と島津のロングラン(約2年に及んだ)対陣が始まっていれば、
阿蘇と相良が龍造寺と連携した軍事行動をとれたはずで、そうなれば島津の肥後統一の歴史が変わったかもなんです。

さらに注目したいのが、大友義統の命による「英彦(ひこ)山焼き討ち(1回目)が同年10月8日だってこと。
英彦山は筑前にある山伏の総本山で、比叡山のように武装化した宗教勢力です。
大友が兵を起こしたのは、龍造寺兵が肥後へ出兵してたからじゃないだろうか・・・

てことは肥後・菊池川を挟んだ「島津と竜造寺の睨みあい」スタートは、8月20日以降の10月8日前・・9月ごろ?
龍造寺は、阿蘇の同盟相手である相良の降伏を受けて、勢いづく島津へのプレッシャーとして動いた・・・??
はっ\(////O////)ノいかんいかんIFはいか~ん、水俣城に話を戻そう。

家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

水俣城主の犬童頼安(いんどう よりやす)は天正5(1577)年に、深水下総と交替で水俣城主になった。
その時に空堀を二重にし、矢玉避けの萱垣を大量に立てる等の改造を行っています。
ただ建物の屋根だけは変えてなかったそうです。(予算の都合か理由は不明)

で、水俣城戦が起こる前に島津の間者が侵入し、城に放火しています。
そこで改造してなかった屋根が茅葺だったため、火災による被害が多かったとか。
止む無く竹瓦に葺き替えさせますが、担当者は水俣城下が放火された際に出陣し、葺き替え途中で討ち死にしています。
それと、逆に新納側から犬童に寝返った者が七名いたそうです。

とにかく新納の攻撃は凄まじく、一日の内に3~4度も突撃しててブラックな職場状態^^;
水俣城三の丸は、あっという間に落とされ、二の丸で踏ん張る相良兵。
激しい戦闘のさなかに、一つの矢文が射られたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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