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【相良義陽77_弟、出奔 】

ウィキペディアを見ると「島津は大友に与する阿蘇を潰そうとして、同盟国である相良を攻撃した(要約)」とあり、
初めに阿蘇ありき・・・のように記述してるが、そもそも島津と揉めたのは相良が先。

それも相良の方から島津を3度も裏切ってる。
進軍コースから言って「はじめに相良潰しありき」で、「阿蘇潰し」は勢いが止まらない状態。

この頃になると「(落ち目の)大友に与してるか、どうか」が問題ではなく、「龍造寺か島津のどちらに帰属してるか」が重要なのだ。
中小企業で構成されている肥後国人クラブ参加企業は、既に協賛グループを決めている。

だが地場産業ながら一部上場クラスの「阿蘇&相良」は、なまじ地力があるがゆえに抵抗を続けた。
肥後エリアに食い込みたい龍造寺と島津にとり「阿蘇&相良」を潰さなければ、肥後エリアに参入しても採算が合わない~

ライバル同士の新興・龍造寺と老舗(守護職)・島津。
両者共に損益分岐点は、どちらがより多くの「阿蘇&相良領」を奪うかにかかっていたのだ。

とまぁ、シビアな状況をチャラかすのは、このくらいにして (; ̄ ・ ̄)=3 コホン

あくまでも自分個人の印象だげど、相良義陽は「戦国武将に向いていない文治派」のように思う。

1)いくら大将とはいえ、最前線に行かなすぎ
2)八代と球磨を統治のために往復するが、生母・内城の随行付き(何歳まで同行かは不明)

初陣はどうだったのかなぁ~過保護っぽいから、周りが御膳立てした安全コースだろうけど。

3)VS島津に関し、義陽本人の「不動の決意」が感じられない。
何かに(主戦派?)突き上げられて流されてるような中途半端さがある。
4)海千山千の黒公家・近衛前久が感激するほどの無垢な朝廷への尊崇

和歌の勉強で知った王朝絵巻の世界に憧れてたのかなぁ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
書を読み、詩歌管弦と、また~り時を過ごすのが義陽には良く似合いそう^-^

いっぽう、寺に預けられた同年・同月・同日産まれの弟・頼貞。
能力は未知数ながら気性は武将向きだったようで、僧侶生活に飽き足らず20歳前後に寺を飛び出し還俗している。

同い年の庶弟・頼貞は、義陽とソリが合わず(文治タイプと武将タイプなら合わないだろうなぁ)、
何やら仕出かして?謹慎してたのだが、天正9(1581)年島津による水俣城攻撃の前後に出奔した。
行く先は栗野とも飯野ともあり、栗野なら鹿児島県で飯野なら宮崎県、どっちにしろ島津勢力圏。

・・・最初に寺院を飛び出した20歳ころというと、北郷・島津・相良の三氏相互支援(伊東への盾にするために北原を支援する会)の頃で、義陽の異母妹・亀徳姫が島津義弘に嫁ぐ話が決定した頃。

亀徳姫は頼貞と生母が同じ・・・もしかして頼貞は妹が島津に嫁ぐことに反対(=島津との同盟に反対)で還俗したかもしれない。

何が言いたいかっていうと、あれほど御家騒動が多い相良家で、揉める元である同い年の弟・頼貞の記録が少なすぎるのだ。

家紋・相良
(ロン様作成:相良家紋ロゴ)

しかも筆マメな八代日記が永禄9(1566)年で断筆し、以降は相良家の記録そのものが減って行き、他家からの記録から覗き見るような状態になる。

弟・頼貞に絡んで、意図的に記録を隠したか、後日に処分されたのでは無いだろうか?
処分するとしたら怪しいのは犬童頼兄(もうちょいしたら登場します^^)
相良家文書を読み下してないから、まだ決めつけられないけど(-ω-;)ウーン

弟・頼貞は謹慎中は八代にいた。
それが脱走してIN鹿児島or宮崎・・・誰かが手引きしなきゃ追手を振り切れるはずが無い。

八代には「頼貞派グループ」がいたんじゃないだろうか。
歴史から途中でフェイドアウトする赤池長任は、頼貞派だったのでは?
だから後年に記録が削除されたのでは?

八代奉行は大口城在番を兼務したことがない(球磨奉行は兼務)
てことは八代奉行が八代から離れるのが不味かったのかもしれん。

さらに八代兵と球磨兵は軍行動を共にしたのは、豊福城攻撃の一度だけ・・・
両者が良きライバル関係なら、むしろ共に行動させて切磋琢磨させようとするはず。

両者が軍行動を共にしたら不測の事態(裏切り)の危険があったからでは無いだろうか。
生母・内城が息子が大人(元服)になっても八代行きに同行してたのは、単なる過保護マザコンだけでなく、八代に頼貞派の暗躍があったのなら納得できる。

出奔した頼貞は、かつての日向・北原当主のように、島津に相良当主として擁立されることを望んだのでは無いだろうか?
だが島津は他家の家督に介入するのに懲りたのか、頼貞の後ろ盾にはならなかった。
後年の話だが頼貞本人は家督を諦め、島津領内で保護されつつ生涯を終えたようだ。

だが頼貞派だった相良家臣(がいたと過程する)は、相良家中に温存されたままだ。
元頼貞派が次に注目したのが、頼貞の妹・亀徳姫様と再婚相手の上村長陸だったとしたら?

傍流だが上村家から義陽の父・晴広が当主に入っているし、義陽&頼貞とは血の繋がった従兄弟だ。
当主としては血統的に無理があるが、不満分子の旗頭であれば上村当主のネームバリューは申し分ない。

上村長陸は朝鮮の役のドサクサに謀反を企んだ過度で処断された。
その時に、元頼貞派も政治的に抹殺されたのでは無いだろうか。

2度目の夫・上村長陸の死後の亀徳姫は、筆頭家老・犬童頼兄(次くらいに登場するんで待ってて~)に蔑ろにされ、最期は餓死したと言われている。
でもってお約束の~~祟り~~ヘ(ーーヘ)(ノーー)ノヘ(ーーヘ)(ノーー)ノ~~祟り~~があったらしいが、何が何して何とやらで、原因も経過も結果も良く分からない不合理状態なんです。

この「もわ~ん」とした感じこそ、頼貞に絡んだ「もわ~ん」に激似。
いかに関ヶ原で功績ある筆頭家老とはいえ、主筋の姫君が蔑ろにする仕打ちに、誰一人声を上げる者がいない。

家老の専横とか家臣がヘタレというレベルの問題ではない。
「寺社関連・民話や民間伝承にすら痕跡が無い」ほどの沈黙、というのは異常なんです。
亀徳姫様の存在そのものが、頼貞と頼貞派に絡んだタブースイッチであり、闇に葬らなければならないものだったんじゃないだろうか。

人物・相良義陽
(幸麿様作成:相良義陽画像)

それは、さておき、もう少し現実的な話。

相良家中のVS島津イケイケ主戦派=(イコール)弟・頼貞擁立派・・・と自分は推測している。
相良家降伏後、主戦派たちが政治的に失脚したのは間違いないだろう。

ましてや関ヶ原以降の近所付き合いを考えれば、島津と激しく争ってた記録を残すわけには行かない。
時期不明だが主戦派たちの言動をゴッソリ処分した中に、弟・頼貞がらみも消されたと思う。

頼貞擁立派=主戦派なら、頼貞の記録が極端に少ないのも頷けるし、亀徳姫が晩年に蔑ろにされた理由も解る。
島津義弘と政略結婚⇒離婚の亀徳姫は、相良の方から島津を裏切ったことの生き証人。

相良家では亀徳姫の口から「迂闊に過去の話をされたり」誰かが「亀徳姫の過去を調べたら」困るんです。
亀徳姫に憐憫をかけたり保護することは、島津が相良を裏切った黒歴史のタブーに触れることになる・・だから蔑ろにされるのを誰もが見て見ぬふりしたのだ。

もちろん相良の裏切りは隠せるものではないし、裏切り自体は戦国時代なんで仕方ない(3度は酷いけど^^;)
それより「相良家中」の「誰が主戦派」で「どんな言動」をして、「島津に対して何をやらかした」かを隠ぺいする方が重要だったはずだ。

もっとも「相良家記」は江戸期の大火で焼失してるので、隠ぺいか、あった記録が火事で失ったかも確認しようが無い。
て感じなんで弟・頼貞出奔すらも相良側に資料が無く、島津家臣の日記にしか無い。

だから正確な時期も逃走ルートも手引きした相良家臣も、今となっては歴史の闇に埋もれている。
天正9(1581)年の今はまず、同い年の弟・頼貞が出奔し、相良義陽の心を悩ませた・・・とだけにしよう。

それは・またの話 by^-^sio~脳内妄想で一話消費スマソ(笑)
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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