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【相良義陽76_阿蘇包囲網・後篇 】

戦国時代の阿蘇家文書には神社としての記録しかない。
国衆とやりとりの書状、安堵状、起請文などは一切ない。
従って戦国期・阿蘇家の動向を知るには、肥後の二次資料や他家の一次・二次史料を元に類推するしかないのが現状である。


天正6(1578)年11月、大友軍が「耳川の戦い」で島津軍に敗れた影響が、肥後に伝播したのは翌年天正7(1579)年の秋。

肥後国人の城氏と名和氏が島津へラブコール~~求めに応じた島津が家臣の佐多と川上を派遣。
二人は隈本城在番となり、阿蘇氏への脅威となった。

さらに相良サイドの国人・天草鎮尚も、相良を離れ島津配下となり、
新納忠元の大口兵が、相良の朴河内城を攻撃する。
(八代からの援軍により何とか死守)

筆頭家老・甲斐宗運を通じて同盟関係だった阿蘇氏と相良氏は、急成長する龍造寺家と島津家の狭間で政治的に孤立しつつあった。

肥後国人たちは、それぞれ龍造寺、島津へ接触、大友サイドだった阿蘇と距離を置くだけでなく、自分たちが生き残るために阿蘇領を「草刈り場」にしようとしていた。

家紋・阿蘇
(ロン様作成:阿蘇氏家紋ロゴ)

天正8(1580)年3月、島津兵+肥後国人連合軍が阿蘇氏を攻撃!
甲斐宗運が兵8000で迎え討つ!!
島津家臣は上記の佐多と川上の手勢+肥後国人連合軍メンバーは名和氏、城氏(島津サイド)+隈部氏、合志氏、川尻氏、鹿子木氏(龍造寺サイド)
勢いはあったんだけど、連合軍で肥後もっこすなせいか、いまいちマトマリが・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ

ちょうど夜半になって雨が降ったので、肥後もっこす連合軍「戦は無い」と、判断。
隈部氏と城氏の陣営で酒盛りワッショイになった^^;

そこへ甲斐宗運が雨の中、華麗に渡河し(川を挟んで対陣してたらしい)夜襲決行!
にわか作りの連合軍は、阿蘇の守護神に o( ̄ー ̄θ★ケリッ 撃退された。

ここで阿蘇氏が盛り返せれば後年の悲劇は無かっただろう。

だが阿蘇の縁戚(当主の祖父の正室が宗麟の実叔母)で後ろ盾だった大友で一悶着発生!
天正7(1579)年12月、大友の分家・田原家の謀反発覚。
天正8(1580)年4月13日、大友家臣・田北紹鉄(たぎた じょうてつ)が謀反の罪で大友宗麟に討たれる。
ああああああああああああああああ!紹鉄が勿体ない!!!_| ̄|○ il||li がくぅ

謀反の真相は定かではなく、田原親賢(大友分家の分家当主で、宗麟正室・奈多夫人の実兄で、奈多神社大宮司←宗麟が激エコヒイキしてた)の讒言で陥れられた説が有力。

同年4月16日、名和顕孝が島津家老・伊集院忠棟へ_φ( ̄ー ̄ )メモメモ~
名和の手紙<城氏の奴らと連携して阿蘇をブッ潰すからよぉ~ちくと兵貸してちょ

実は名和は阿蘇に個人的な恨みがあった。
名和と相良では豊福城の領有を巡り、双方・数代当主に渡り、都合9回も争っていた。

最終的に相良義陽が直々に出陣して豊福をゲッツするのだが、その時に阿蘇は相良寄りの態度をとった。
(甲斐宗運と相良義陽が相互不可侵の盟約を交わすのが、この頃)

それだけでなく名和顕孝の父が家督相続を巡って、家老と争いになった時に、敗れて亡命した名和家老を阿蘇家が保護したんです。
阿蘇にすれば、長年・肥後国人の盟主的立場だったので、頼られたら無視も出来なかった。

だが名和にすれば不愉快極まりない上に、豊福城を失うという一大事に阿蘇は素知らぬふり。
名和「大友の後ろ盾があったから立ててただけだぃ!もぅ遠慮イラネ潰しちゃる!!」

家紋・甲斐
(ロン様作成:阿蘇筆頭家老・甲斐家紋ロゴ)

同年5月12日、相良の朴河内城が二度目の攻撃で落城、相良のジリ貧度アップ!
ちなみに城主の東頼兼と息子の頼一は、岡本に帰りました(O ̄∀ ̄)ノ

同年6月~7月~大友宗麟~謀反を起こした田原家討伐開始。
そもそも田原が謀反起こしたのは、宗麟が自分の息子を当主にしようとゴリ押ししたからなんです。
元からいた当主候補の田原娘婿が怒って謀反起こし、この件では田原家に同情する大友家臣もいて、謀反の罪で討たれた田北は同情派家臣だったんです。

同年8月、田原を援軍しようとした毛利水軍を、大友の若林水軍が撃退。
織田水軍に敗北した痛手が残ってたか・・・往年の毛利水軍も衰えたな・・・

一時の勝利はあっても、大友王国内部がガタガタになってるのを対外的に糊塗するのは既に不可能!

同年8月12日、今度は城氏が伊集院へ手紙<今、やれ(阿蘇潰しは)成就するから(援軍して)
ピンチの大友に魔王降臨 ̄ ̄ ̄ ̄<( ̄^ ̄)/ビシ★
同年8月12日、織田信長⇒島津義久へ仲介無しで初の直接交渉「大友との和睦」を促す。

同年8月28日、龍造寺隆信⇒島津義久へ「共に大友を討ちません?(O ̄∀ ̄)ノ後は要相談~」
同年9月13日、信長が島津へ再び大友との和睦勧告。
同年9月19日、根負けした島津が大友の和睦を承諾。証として日向鷹を信長に贈呈。
便乗おねだりしてた近衛に鷹が贈呈されたかは定かでは無い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同年9月16日、基地港計石で相良軍が島津水軍を撃退。
同年10月?日、阿蘇家臣・中村惟冬の矢崎城と中村弟の網田城が、島津の攻撃で落城!
同年11月23日、島津家臣・佐多(隈本城在番)が龍造寺サイドの合志氏を攻めて降伏させる。
アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ あぁピンク=大友と青=肥後関連の太文字が錯綜~~

大友の衰退、龍造寺と島津の台頭と相良と阿蘇への攻撃と、肥後国人たちの動きは複雑に連動してます。

天正9(1581)年春、(やっと)大友に見切りをつけた甲斐宗運が龍造寺家に人質を送る。
同年?月?日、天草諸島国人・志岐氏が龍造寺に服属する。

天正9(1581)年?月?日、ついに島津と龍造寺の両軍が菊池川を挟んで睨み合い!
伝えられるところでは海路肥後入りした龍造寺隆信は、現・玉名市北部、土豪大野氏の居館のあった内野城に本陣を構え、菊池川沿いに大軍を布陣したという。
一方、島津勢は1万数千ほど、数の上では圧倒的に龍造寺勢が優勢だった。

この時期に島津義久が何処にいたかリサーチ出来なかったが、おそらく島津軍は隈本在番の佐多と川上が中心で、義久本人は出馬してないように思う。

両軍は対峙しただけで撤退、菊池川を互いの国境と定めたそうだ。
有利だった龍造寺がアッサリ引き上げたのは、帰属したばかりの肥後国人が不安だったのと、
前年に蒲池一族を抹殺してて、家中の動揺も残ってたからではないかと推測してます。

で、この時に龍造寺と島津を仲介したのが、筑前の秋月種実なんです^^b

龍造寺とは国境定めて、とりあえず和睦。
大友とは、信長が五月蠅いから、渋々和睦。

島津「じゃぁ相良潰しに全力投球するぞ!その次に(北上して)阿蘇を料理ね」

ドミノかオセロのように、あっという間に塗り替わる勢力分布図。
今日の決断が明日の死かもしれない。
と言っても過言でないほど、島津と龍造寺の勢いが凄過ぎる!!Σ(´Д`;)はぅ

効果的な手を打つ間もなく、島津による相良に対する本格攻勢が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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