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【相良義陽75_暗殺 】

天正3(1575)年~織田信長の依頼で、はるばる九州へ下向した元関白の近衛前久。

九州の諸大名を和睦させ、彼らを持って毛利攻めの手ゴマにしようとした信長の目論見は失敗したものの、近衛前久の仲介で島津と相良の停戦和議が成った。

前回、義陽が和睦を渋ったと書いたが、実は義陽は京都へ上洛することを希望していたらしい。
もしかして「島津討伐」の名目を朝廷工作的な・・・というのは考えすぎだろうか。

一方、島津も伊東との和睦はo( ̄ー ̄θ★ケリッ と拒否したものの、
それでは近衛の面子丸潰れで、そのままにしておくわけには行かない事情があった。
だって、近衛前久は島津義久の古今伝授の師匠なんだもん~~*人 ̄▽)♪

因みに島津義久の古今伝授成就は翌年の6月で、再び下向した近衛を犬追物見学ツアー組んで大接待してます。
確か薩州家の島津義虎も、近衛を出水で接待してたことがあるはず~
(あぅ~_φ( ̄ー ̄ )メモメモ しとけば良かった~ウロ覚えスマン)

とにかく双方「元関白・摂関家の面子を潰す訳には行かない」ってことで停戦したんです。

でも、もうこの時期は島津は伊東を潰す気満々だったし、
3度も島津を裏切った相良を信用なんてしてなくて「いつか殺るリスト」に入ってた。。(ω・`))


家紋・相良
(ロン様作成:相良家紋ロゴ)

天正4(1576)年~島津による日向侵攻が始まり、伊東家の支城が落とされ、或いは島津へと離反して行った。
天正5(1577)年~犬童頼安(いんどう よりやす)が深水下総と交替で水俣城主になる。
犬童はVS島津備えて、城の空堀を二重にし、矢玉避けの萱垣を大量に立てる等の改造を行っている。

えっと~皆さん、犬童頼安を覚えてるかしらん~( ̄ー ̄A 汗フキフキ

例の「恋する3バカ」のせいで起きた謀反「獺野原(うそのばる)の戦い」で登場した相良家臣です^-^
犬童一族は、相良家督乗っ取りをした15代長定に加担したため、悉く処断されたのですが、
当時4歳だった頼安クンだけが出家を条件に助命されてました。

成長した頼安は寺を脱走⇒一時は父母・一族の復讐に燃えて謀反に加担⇒失敗⇒逃亡
という黒歴史があるのですが、許されて相良に帰参し義陽に仕え、件の「獺野原(うそのばる)の戦い」で活躍。
その後、上村地頭となり、さらに水俣城を任されたんです。

彼の後の活躍は・・・知ってる人は知ってますね(*´艸`)ウフフ

同年4月3日~義陽の3男・長誠が産まれる
同年12月・・・遂に裸の王様・伊東義祐が豊後落ち~~島津に敗れ全てを失った・・・
常日頃の傲慢さと家臣の専横が祟って、支城の城主が寝返りで城下を通過できず辛い山越えルートの逃避行。

天正6(1578)年11月12日~耳川の戦いで大友家が島津氏に敗れる!!

家紋・島津
(ロン様作成:島津家紋ロゴ)

あああああぁぁぁぁ。゜゜(´□`。)°゜。蒲池鑑盛~佐伯惟教~斎藤鎮実~吉弘鎮信~~戦死が勿体ない~~
大友家って主君は評価しづらいが、家臣は見事な武将揃いですわぁ~(人´∀`).☆.。.:*・

この発端には2つの要素があります。

「伊東家が豊後に亡命⇒⇒大友に泣きついた」
「島津のバックアップ受けた土持氏に圧迫された三田井家⇒⇒大友に泣きついた」

同年12月24日~日向が緊迫した情勢のなか、大畑城主・佐牟田長堅が島津の刺客に暗殺される。
佐牟田はVS島津で活躍した勇将で、その武勇は侮りがたいと島津義弘が調略して味方にしようとしたほどだった。

その調略の話はウィキペディアに記載されています(字数制限あるんで割愛)

で、佐牟田は狩りが好きで常に犬を連れて出掛けていたのだが、
キングオブ九州探題・大友家が敗れるという、一大事の時にも城を出て狩りにハイホーハイホー♪
呑気なのか、豪胆なのか、良く分からん(-ω-;)ウーン

「奥ゆかしい」と評された弟(木崎原の戦いで援軍大将)とは、全く違う性格みたいです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

長堅は薩摩国の山中にある深田(深仁田とも)というところで火縄銃を用いて狩りを行っており、
(しかも国境越えて敵地でハイホーハイホー♪~( ̄ー ̄A 汗フキフキ)
その最中に島津氏の送り出した刺客によって銃殺された。

ナニカンガエテンダカ・・・・アホの子にしか見えない・・・il||li _| ̄|○ il||l

家紋・織田
(ロン様作成:織田家紋ロゴ)

膨張を続ける島津の勢いは留まるところ知らず~もはや島津自身にも制御は難しいだろう。

耳川の戦いで衰退一直線の大友宗麟は、織田信長に助けを求める。
天正7(1579)年4月~9月にかけて~織田信長が介入!
近衛前久を通じて島津に対し大友家との和睦を促す。
この、いわば一回目の外交交渉は失敗に終わった。

この時期の織田信長は、信玄公・謙信公という二大巨星が亡くなったとはいえ、石山本願寺との戦は終わってなかった。
が、第二次木津川の戦いで毛利水軍を破っており、いずれは九州への脅威になることは予感できる頃。

とはいえまだ尻尾を振って従うには早い~~島津義久は近衛さんの手紙(信長の要求)をスルーした。
が、やはり難しい政治判断が伴うので、島津は大友へ大きなアプローチはしていないようだ。

そのかわり・・・と言っては何だが、相良や周辺への圧迫が強まった。

同年、7月~相良サイドだった天草鎮尚が島津へ降伏するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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