【相良義陽72_木崎原の戦い3_加久藤城攻城戦】

主要参戦武将(ウィキペディアより)~×マークは戦死

島津軍
島津義弘(総大将)、鎌田政年、上井覚兼、宮原景種、川上忠智、×遠矢良賢、村尾重侯、五代友喜、
鎌田政近、黒木実利、町田忠辰、西田武蔵守、赤塚重増、×樺山浄慶、富永万左衛門
(援軍)新納忠元

伊東軍
×伊東祐安(総大将)、×伊東祐信、×伊東又次郎、伊東祐青(伊東マンショの父)、×伊東祐次、
×伊東右衛門、×伊東杢右衛門、×落合兼置、×米良重方、×米良喜右介、×柚木崎正家、
×丸目頼美(元相良家臣)、×長倉六三郎、長倉伴九郎、×上別府宮内少輔、×米良長門守

相良軍(参戦せずに撤退) 佐牟田常陸介(大将)、深水播磨


伊東軍敗北の最大の要因は油断

1)永禄9(1566)年に小林城攻めで島津軍を退けたこと(例によって義弘は重症を負い、一時戦線離脱)
2)永禄10(1567)年に島津豊州家が守っていた飫肥城を遂にゲッツしたこと
3)伊東義祐が豪奢な放蕩生活が拍車をかけた。

伊東軍の若者たちは「島津なぞ竹竿一本で打ち果たす」などとうそぶいていた。

驕りが智慧と警戒心を曇らせる。
島津義弘が用意した囮(おとり)=義弘の正室と嫡男がいる「加久藤城」へと誘きだされた。

伊東軍編成も「青年武士が中心」
とはいえ伊東もノープランだったわけではなく、事前に相良家へ援軍を頼んでます^^b

ウィキペディア「木崎原の戦い」の項目には記載されてないので、この記事を読んでる人でも印象薄いと思うけど、
元亀1(1570)年6月に島津家と相良家は和睦してるんです。(相良家文書では永禄年間のままになってる)

にも関わらず相良は援軍を快諾し、佐牟田常陸介忠興を大将に兵500を派兵した。
しかも相良の島津に対する和睦破りは、都合3回目。
仏の顔で3度なのに、命のやりとりする戦国時代では1度でもダメだろ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

以下、ウイキペディアより&( )内は管理人補正

元亀3(1572)年5月3日の夜中、伊東祐安を総大将に、
伊東祐信、伊東又次郎、伊東祐青を大将とした青年武士を中心とした3,000余の兵は、
島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 

伊東軍は翌未明に飯野・妙見原に到着、ここで軍を二手に分け、
一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、
もう一軍は伊東祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から[木崎原]を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃をしかけるべく進出した。

伊東祐信は、まず手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発した。
それにより加久藤方面の夜空が炎で赤く染まり、それを見た近臣により義弘は起こされる。
(つまり飯野城は、加久藤の近所にあったの^^)

だが、島津義弘はすでに飯野の盲僧・菊市を間者(スパイ)として伊東領内に送り込み、(伊東軍の)情報を得ていたため対応は落ち着いていた。
義弘は狼煙を上げさせ大口城の新納忠元や馬関田城などに急を知らさせる。

そして、兵60人を遠矢良賢に与え加久藤城の救援にあたらせ、
五代友喜の兵40人を白鳥山野間口に、村尾重侯の兵50人を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせた。
そして有川貞真に(飯野城の)留守居を任せ、島津義弘自らも兵130を率いて出陣し、飯野城と加久藤城の間の二八坂に陣を張る。


戦う時は最前線~~それが島津義弘^-^

その後、伊東祐信の隊は加久藤城へ侵攻を開始。
事前に得ていた情報(実は島津義弘が送りこんだ女スパイの偽情報・前回記事参照)を元に、
城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰(鉤・かぎ)掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。
(名前の由来:鉤・かぎを掛けないと、よじ登れない程の険しい場所だった)

樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ伊東祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。

伊東祐信の隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。

そこへ加久藤城を守る川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、伊東祐信の隊は退却を余儀なくされる。
この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られた(異説あり)。

家紋・伊東
ロン様作成:伊東家紋ロゴ

またその頃、真幸院(飯野地区は真幸院の一部)に進出した相良軍500人は、島津義弘が諏訪山の大河平に立てさせた幟を見て、これを島津の将兵と思い込みそのまま人吉へと引き返していた。
大河平(おこびら)・・・(人´∀`).☆.。.:*・・・・隆次クン・・・君の玉砕は無駄じゃないぉ。

さてマニアックな過去記事への回想はさておき、ウィキペディアに記載されてる相良軍の動き。

実は相良側の史料では、相良軍は伊東軍が敗戦した為に帰還したとなっている。
一連の戦いは寅の刻(午前4時)から始まり、羊の刻(午後14時)までと約10時間。

てことは何かい?相良軍は10時間も伊東軍が負けるのを| 壁 |・ ̄)じぃ~っと観てたってのか?
「偽兵の旗幟に騙されて帰還した説(これはこれでマヌケなんだが)」の方がマシなんじゃ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

相良軍の大将・佐牟田常陸介というのは、大畑城主・佐牟田長堅の弟・忠興です。
島津家が刺客を送りこむほどの武将だった佐牟田長堅の身内なんだけどなぁ~・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
因みに忠興は「南藤蔓綿録」には「奥床しき者」と記述されてる・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ

援軍が引っ込み思案でした~~てかっ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!
同じ忠興でも「細川」とはエライ違いだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、加久藤城攻撃が思うように行かず退却した伊東軍、暑さのあまり川で水浴び始めちゃうのだが、それは・またの話 by^-^sio
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