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相良義陽_53【粛清_前編】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
≪記事内ルール≫
年号⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他の色文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
イメージ・花

永禄9(1566)年、この年に島津15代当主・貴久が、嫡男の義久に家督を譲っている。
いよいよ次世代である四兄弟時代到来だ^^

薩州家の長島押領でグダグダになった天草地方の国人たちだが、その中で上津浦氏と栖本氏が講和した。
薩州家(島津家分家筆頭)が、内部で内輪もめしたため、長島以外に食い込む事が出来なかったのだろう。

また、かつて相良氏が追放した長島氏が薩州家の庇護を受けていた・・・という名分で動いたので、それ以上は押すのは現状好ましくないという薩州家側の判断が働いたのかもです。
というのは、薩州家領内で飢饉と疫病が発生していたから、人心不安定で軍行動を控えたかもです( ̄ω ̄A;アセアセ
(鹿児島神社庁HP・若宮神社の由緒参照ですが、飢饉・疫病の被害状況や終息時期などは不明)

薩州家側の理由はともかく、天草での騒動が沈静化して、義陽は胸を撫で下ろしたに違いない。
そして義陽ですが、名和家の豊福城を取り戻した事で、気持ちが一段落したのでしょうか。

翌・永禄10(1567)年4月1日~水俣城の上村頼孝が相良義陽の命令で殺された。
上村頼孝は義陽の実の叔父だが、実祖父・上村頼興の死後、謀反を起こし失敗すると日向の北原家へ逃亡していた。
それが、球磨地方最大の内乱「獺野原(うそのばる)の戦い」で許されて帰参し、水俣城へ入っていました。

実は、豊福城が名和氏に奪われた、、、そもそものキッカケは叔父の謀反のゴタゴタのドサクサだったんです。
義陽は、自分に対し謀反を起こした叔父を、本心から許してはいなかったのでしょう。

というより、島津宗家と敵対関係になった以上、島津分家筆頭・薩州家との最前線である水俣城に、謀反歴のある叔父を置くのが不安だったのかもしれません。

叔父を匿った北原は没落した。
誰に遠慮も無い。

人物・相良義陽 橘朝臣幸麿さま作画・相良義陽画像

相良義陽より、蓑田信濃、高橋駿河らが、上村頼孝誅殺の為に差し向けられました。

それに対し深水源八郎という者が深水長智(奉行職)へ
「頼孝への仕打ちとしてこちらの侍が一人も死なない事は礼儀に反すると」申し立て、自ら相果てる役となった。

上村頼孝は対峙した深水源八郎に対して礼を述べると、御霊となって源八郎の子孫を守ろうと述べたそうだ。

二人は互いに槍を合わせ、頼孝は源八郎を突き殺すと自ら切腹して果てた。享年51。法名は「本山蓮光」

これだけでは解らないと思うが、義陽が差し向けたのは八代衆で、深水源八郎は球磨衆なんです。
そして深水源八郎が行くのを許可したのは、奉行の深水長智で、義陽ではありません。
(後で報告はしたと思うけど)

上村の本貫地・上村城は球磨郡で(現あさぎり町)です。
義陽は討手を選ぶにあたり、球磨郡に縁故のない八代衆を選んだのですが、それでは一方的にすぎるだろうと・・・
で、「相討ちで果てる役」として球磨衆で、自分の同族の中から選んだのは、深水の温情だと思います。
あるいは、祟りとか恨みの連鎖を、ここで終わらせようとの配慮だったのかもしれません。

奇しくも、この年は名君と謳われた義陽の父・晴広の13回忌にあたる年でした。
命日の8月6日・・・この日、深水長智のみが剃髪し法体となっているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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