FC2ブログ

肥前千葉氏_5【全盛期】


以前、史料集めしてた時にザックリ一話でまとめた【肥前千葉氏】がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/3427806.html

その後、自分の中で肥前千葉の存在が大きくなり、今の連載に至っている。

結論から言うと、肥前千葉氏は西と東に別れ、鍋島家臣として残る。

東も西も「朝鮮の役」に出陣し、別シリーズ連載「江上・八院合戦」にも出陣した。




素人考えだが自分は肥前の戦国時代は、肥前千葉氏が西と東に分裂したのが本格スタートだと感じている。

なぜならそれは北九州の覇権を巡る、少弐と大内の代理戦争だからだ。

むろん肥前千葉がいきなり東西に分裂したわけではなく、幾度となく大内の介入を受けたからです。

最初に介入されたのが室町時代で6代将軍・義教の頃で、その時の大内当主は大内持世。

大内持世はライバル少弐を滅亡寸前まで追い詰める事には成功したものの、肥前千葉への介入には失敗した。

7代目胤鎮は、大内が擁立した8代目胤紹(胤鎮弟)と、その嫡子・政胤を殺し、大内の画策によって奪われた家督を取り戻す。

8代目胤紹は、大内のバックアップで室町幕府から正式に当主と認められているため、系譜上8代目とカウントされている。

つまり、この最初の介入で肥前千葉は、嫡流・胤鎮系譜と大内擁立の胤紹系譜の二つに分かれたんです

胤鎮の追捕を逃れた胤朝が大内の庇護下に入った。

肥前千葉にとってラッキーだったのは、大内持世が「嘉吉の乱」の巻き添えで死亡したことです。

家督のことで大内は混乱し、その間に肥前千葉⑦胤鎮は独自の勢力として力を付けていった。



かちがらす様より拝借した千葉城跡&須賀神社の写真
http://blogs.yahoo.co.jp/katigarasu8/9471290.html

いつ見ても気が遠くなりそうな階段だ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

「国主様」と崇められた⑦胤鎮は1455年に56歳で波乱の生涯を閉じた。

家督を継いだのは次男で18歳の元鎮(嫡男は12歳で早世)だ。

家督簒奪者である胤紹が幕府の正式承認を受けた8代目なので、元鎮は9代目になる。

肥前千葉の最盛期というと一般的には10代目教胤とあるのが多いが、実際は胤鎮~元鎮が最盛期を迎えた当主のようだ。

このころは天変地異が非常に多く、そのために改元も多い。

地震、落雷、洪水⇒浸水、台風⇒作物被害で飢饉、太陽が二つに割れて見える幻日現象も発生している。

にも関わらず肥前千葉の台所が裕福だったのは、朝鮮との交易によるものが大きい。

9代目元胤は牛頭城下で犬追物を開催している。

動物愛護の観点から現代では作法が伝わるのみで開催はされていないが、
鷹狩より、犬追物の方がステータスな武家貴族スポーツで、金もかかるでつ( ̄ω ̄A;アセアセ

更に元胤は猿楽を好み、舞台を作って京都から観世太夫を招いた。

元胤は居城の牛頭城下を国府と称し

もともとの国府を府中と呼ばせて区別するほど勢力を誇った

国府(牛頭城下)の繁栄ぶりは肥前の小京都を呼ばれるに至る


北肥戦誌には「千葉家全盛期とぞ見えし」と記されている


この間にも太陽が3つ並んで、しかも二年続けて出現(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

疫病で地下人が多数死亡したため、諸国の国人たちが動揺した。

1464年(寛正5)10月29日~9代目千葉元胤が28歳の若さで急死する


元胤は男子がいなかったので、亡き7代目胤鎮の三男・教胤が家督を継いだ。

教胤は未だ14歳。

この状況を大内氏が指を咥えて観ているはずがない。

大内は肥前千葉の縁戚で親しい同盟関係である肥前今川家に目をつけるのだが、それは・またの話 by^-^sio

スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
779位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
122位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR