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【大宮司の野望】相良氏、戦国名君編3

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肥後が「難治の国」になった原因は、甲斐氏の主君・阿蘇氏にあると前回記したが、
そもそもは肥後の守護職・菊池氏が家督争いなどで家運衰退したことが始りで、
菊池家の地盤沈下は年代でいうと関ヶ原の100年以上前(管理人涙目)に遡る。

でもって阿蘇氏は阿蘇神社の大宮司なんですが、
現代なら初詣や結婚式の時に世話になる神主の白いイメージしかないだろう。

だが戦国時代までは武家が神職を兼任するのは珍しいことでは無く、神社系武家は全国に山ほどいる。

だから大宮司と言っても中身はバリバリ武家なので、その内面には野心や欲望が普通に腹黒く渦巻いている。

1505年(永正2年)~阿蘇惟長が肥後の守護職が欲しくなり、菊池家の家督を狙った。
(もともとは天正~慶長年間を扱うはずが、今じゃ明応だの永正とか戦国期前半に夢中な件) 

で惟長は、そのために豊後の大友家のバックアップを得る。

時の大友当主は大友義長~~~高名なキリシタン大名・大友宗麟のおじぃちゃま(* ̄・ ̄*)b

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大友家紋

話戻すと阿蘇惟長と大友義長の接点は?というと義兄弟なんです。

大友義長(宗麟グランパ)の正室が、阿蘇惟長の妹(or姉)なんです。

阿蘇惟長は大友のバックアップを背景に、菊池家三家老(赤星・隈部・城)に揺さぶりをかけると、
三家老+家臣22名が惟長を主君とする旨を認めた誓詞を差し出した。

このあたり菊池家内部でも色々あって「惟長を迎えよう」となったみたいです( ̄ω ̄A;アセアセ

で結果、菊池当主は o( ̄Д ̄θ★ケリッ! っと菊池家を追い出された。

とはいえ追い出された旧主を支持する家臣もいて、菊池家は旧主派と惟長派に分裂しちゃう。

念願の菊池当主になった阿蘇惟長は、ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク~
早々と当主の座+阿蘇大宮司職を弟の惟豊に譲っちゃう。

阿蘇惟長(菊池の家督継いで改名してるけど、ややこしくなるからこのままで)は、野心はあるが器量はイマイチだった( ̄ω ̄A;アセアセ

さらに不幸なことに「自分が大友の傀儡当主である」と気づく程度の知恵があった。(-ω-:)ウーン

いっそ気づかなければ脳内花畑・名門当主として、無難に人生を終えられたかもしれない。

1511年(永正8年)~傀儡当主でいるのがイヤンになり菊池家から矢部へと退去する。
矢部とは阿蘇氏の本拠地で、つまり惟長は「アタシ実家に帰ります」をやらかしたんです(爆

実家に帰ったものの、家督は既に弟に譲ってて居場所がない(出戻り小姑化・爆)

てことで薩摩・島津家を頼った。
(※大友の傀儡がイヤで飛び出してるから縁戚の大友を頼れない( ̄ω ̄A;アセアセ)

阿蘇(菊池から出戻り)惟長は、実に身勝手な兄だった。

自分の都合で家督を弟・惟豊に譲ったのに、今度は阿蘇の家督を取り戻そうと目論んだのだ。
(黒いんだが、どうにも小物臭がする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

1513年(永正10年)~阿蘇(菊池出戻り)惟長が、島津の援助で矢部を攻撃~
惟長は、弟・惟豊を o( ̄Д ̄θ★ケリッ!すると、己の嫡男・惟前を大宮司に据えて、自分が実権を握った。
敗れた弟・阿蘇惟豊は日向へ亡命した。

なんていうか・・・日向は高千穂とか秘境チックなとこあるから隠れやすいんだろうなぁ^^;

一方、高千穂の三田井氏の客将として、着実に力を付けていたのが菊池の庶流・甲斐氏です。

リアル・インディジョーンズごっこが出来そうな高千穂の未開地を開拓するうちに、
甲斐氏は統制のとれた組織を作り上げる術を身に着けていた。

甲斐氏は亡命した阿蘇惟豊を保護し、彼を支援することによって自らも肥後の地に戻ることを考えた。

時の甲斐氏当主が甲斐親宣(かい ちかのぶ)・・・肥後の人気武将・甲斐宗運の父です^-^

1517年(永正14年)~阿蘇惟豊が甲斐親宣の支援でリベンジ!
出戻り惟長と息子・惟前は八代へと亡命する。

出戻り惟長は、そのまま復活することなく、1537年58歳で(色んな意味で)残念な生涯を終える。

ちなみに1537年は豊臣秀吉が産まれた年です・・・てことは申年になるのか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

復活した阿蘇惟豊は、身勝手な兄に協力した者たちを容赦なく処罰し、甲斐親宣を中心とした体制・組織作りを固める。

甲斐親宣に対する譜代家臣以上の厚遇に、阿蘇家臣の中で一時は不満・嫉妬もあったのだが、
甲斐親宣の功績が群を抜いているのは否定できず、
また甲斐親宣の優れた人品骨柄を知ると、やがて周囲は自然と納得した。


とまぁ、人騒がせな阿蘇家の内輪揉めは一応の治まりを迎えたのだが、
阿蘇氏が引っ掻き回したせいで菊池家が治まらない(_´Д`)アイーン

惟長が「実家に帰る!べ、べつに追い出された訳じゃないからね!」の後、空位になった菊池家当主。

菊池家臣たちは、一族から新当主を迎えて大過なく終わろうとしたが、
なんていうか、一回揉めて庶流から当主を迎えたりと「負のスパイラル」に陥ると、
「誰が当主になっても不満が出る」んです。

そこへ介入するのが大友当主!

大友義長は1518年に亡くなり、大友義鑑(宗麟ダディ)が数え17歳で家督を継いだ。

まだ若すぎるってことで祖父の補佐を受けていたのだが、その義鑑が積極的な領土拡大策をとった。

1520年~菊池家臣団の不満に付けこみ、大友義鑑が弟・義武を菊池当主にと送りこむ。

さぁこれで治まるなら肥後は「難治の国化」になったりしない。

さらに揉めて、その渦中に相良家も巻き込まれるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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