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【北肥戦誌・1580年】蒲池氏籠城300日

さて、隆信と嫡子・龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)は、田尻鑑種と共に、蒲池鎮並誅伐について密談を重ねる。

そんな折の2月10日、遂に鎮並が居城・柳川城へ立て籠もったと田尻より注進があった。

須古城の隆信は、早速に討ち手を出すべしと下知し、現当主たる嫡子・鎮賢を大将に、13,000を柳川に差し向けた。

先手は内田兼能(入道栄節)である。

鍋島信生(直茂)は三潴の者達を伴い酒見より、田尻は三池山門の家人らを催し鷹尾城より馳せ参じた。

他に山下の蒲池鑑広、西牟田の西牟田鎮豊、肥前衆は龍造寺家晴・安住家能・横岳家実・横岳頼続らを、段々に備えを立てて2月13日(3月13日、3月18日説あり)より柳川城を取り囲む。

更に集まり、寄せ手は20,000余騎に達した。

寄せ手は各々攻め口を打ち破らんとするも、城兵はこれを事ともせず、各々陣を固めて城を囲みながら、唯々時間を費やした。

3月下旬、鎮賢は柳川城を囲みながらも、いまだ肥後国の従わぬ者らを征伐すべしとした。

そして柳川に多勢を据え置きつつ、4月9日に筑後から肥後へ、先陣・鍋島信生、二陣・龍造寺信周ら、他に江上・後藤・神代・松浦などなど錚々たる面々を催し、海路と陸路の両面より討ち入る。


隔して翌10日、鎮賢は肥後大津山へ着陣する。

都合50,000余騎である。

翌11日に山鹿へ着陣、この日より筒岳城主の小代伊勢入道宗禅・関山城主の大津山河内守・隈部城主の隈部親永・迎春城主の辺春親運が参陣する。

この頃、隈部城に在る赤星統家が、龍造寺に従わない為に攻めると決し、鍋島が軍勢20,000を引き分けて隈部城へ攻め掛かる。

当然ながら赤星側にも用意があり、町小路の詰まりを差し固め激しく防戦する。

それでも鍋島勢が外郭を打ち崩して敵を300余人討ち取ると、赤星は妻子を伴い詰めの城へ籠った。

15日、御船城主・甲斐宗運、合志城主・合志親為、隈本城主・城親賢、八代城主・赤星統家、球磨の城主・相良義陽、その他に阿蘇惟種・志岐鎮経ら肥後国人が山鹿へ参じた。

(↑:この頃、城は島津に誼を通じており疑問が残る。
赤星も正しくは隈部城主であり、相良は赤星攻めへの協力は求められているが断っているとの記述が『人吉市史』にある。
何よりこの年の3月は、甲斐宗運 vs 城・名和・合志・隈部・川尻・鹿子木の戦いが白川亘で行われており、この記述はかなり信憑性に欠ける。)

21日、赤星は自ら本丸に火を掛け、その煙に紛れて合志の山中へ落ち隠れる。

城中の女子供は煙に巻かれ、深溝に落ちて命を失う者もあった。

或いは、下村生運に人質を渡して下城したとも・・・以上は天正7年の出来事であるとも、或いは赤星統家ではなく、赤星入道道繁であるともあり判然としない。

何はともあれ、信生は隈部城を攻め落とすが、
隈部が「この城は元々我が旧城に御座れば、深く所望致したく存ずる」と述べたので、信生は隈部に城を授けた。


翌22日、内古閑鎮房を攻めんとすると、鎮房は内古閑城を開城し降参した。

隔して高瀬・山鹿・南の関へ宗徒の一族を残し置き、龍造寺勢は皆筑後へと帰陣した。


さて、昨年に大友方・小田部入道紹叱・大鶴入道宗周が執行に討たれた事に宗麟父子は憤激し、
この夏に臼杵鎮富・小佐井鑑直に軍勢を与えて龍造寺討伐へと差し向けた。

両人は府内からまず筑前へ赴き、戸次入道道雪・高橋入道紹運に参会する。

評定の末、大鶴入道の荒平城を修理し、臼杵・小佐井共にこの城へ入って、龍造寺方の内野・飯場・飯盛らを攻めんと準備を始めた。

その注進を受けた隆信は、ならば自ら出馬し追い落とさんと、筑紫・秋月・原田・波多・草野へ回状を回し、急ぎ荒平城へ出陣するよう要請した。

5月下旬に先手を小河信貫・納富信理(前名:家理)とし、佐嘉の城を出馬、
三瀬峠を越えると神代長良・曲渕房資が参会、この二人を案内者に立て筑前の内本名村に着陣した。

弟の龍造寺信周は下松浦・杵島の両軍勢を率いて、隆信に先立ち筑前へ入ると早良郡に陣を布いた。

その兄・龍造寺長信と、龍造寺康房は多久城から上松浦を通って、波多親・草野中務大輔鎮永の勢を加えると、怡土・志摩の間に出て、原田信種と共に陣を布く。

江上家種は三根・神埼の士卒を連れ、北山を越えて内野の要害へ加わる。

鍋島信生は筑後勢を率いて柳川から筑前へ入り岩門に着陣、これに秋月種実勢が合流する。

総勢43,000である。

隆信は秋月・筑紫と評定、戸次・高橋の居城である岩屋・宝満、立花と荒平との通路を分断し、
士卒20,000を引き分けて、龍造寺信周を大将に任じて小河・納富を以って荒平城を攻めさせる。

これに臼杵・小佐井は、小河・納富勢を坂落としに攻める。

荒平は東西南北すべてが屏風の如くに険阻で、櫓・掻楯(垣根の様に楯を並べる事)は隙間が無く構えて、そこから弓・鉄砲を激しく打ち掛けてくる。

寄せ手20,000は為す術無く、隆信は先ず兵を退かせて遠攻めを命じた。


6月下旬、小河・納富の陣へ執行種兼が現れ、
三人は内談、「左様程度の小城を二万に余りし多勢にて攻め倦み、斯様月日を送るとは世上・傍輩に嘲られ、これに過ぎたる瑕瑾(かきん:恥辱)は御座いますまい。もはや大将の下知なくとも我らが手勢のみにて一攻め致し、敵わずば討ち死にを遂げん。これ、他には知らせず、努々他の士卒加えるべからず」と、密かに陣屋を打って出て執行は自ら真先に進み、荒平の坂を一息に駆け登ると、大城戸に混々(ひたひた)と近付いて城内へ乗り込まんとする。

城兵は不意をつかれ慌てて矢・石を飛ばし、鉄砲を撃ち掛けるが、三人は事も無げに大城戸を破り、城中へ攻め入る。

これに気付いた龍造寺の他の軍勢も、味方に続けと我先に攻め登る。

やがて空閑三河入道可清が進んで城中に入り、大将の小佐井を生け捕った。

副島・神代・曲渕らも城内へ入り火を掛けた為、城兵は煙に巻かれて防ぎ得ず、もう一人の敵大将である臼杵は、信生に和を乞うた。

ここに和が成ると、臼杵は城を退去、荒平城には龍造寺より番人を差し置いた。


7月半ば、隆信は次に糟谷郡立花城の戸次道雪を攻めんとするが、これに筑紫惟門が双方の和睦を進めた。

双方共に承諾し、筑前国15郡を二つに分け、東北6郡は大友領、西南9郡は龍造寺領と定めた。
(或いは立花・岩屋・宝満などの大友の城周辺を除いた一円が龍造寺領とも)。

隆信は生の松原へ逍遥し終日酒宴に興じた。

そこへ高祖城主・原田越前入道了栄が孫の原田信種を伴い、鏡の草野中務大輔鎮永と同道して、酒肴などを持たせて参じると、隆信は大変喜悦、信生も会釈し大いに興じた。


次に隆信は豊前征伐の為、50,000余騎を率いて龍造寺信周を監軍として博多まで動く。

このとき戸次道雪が家臣・麻生主水助を使いに、太刀・馬・酒肴を隆信の旅陣へ贈って来た。

隆信はちょうど饗膳の最中で、麻生と対面し道雪への礼を述べると、飯椀に酒を三盃酌み、
「此度の和平が印に、此の盃を道雪殿に差し上げん」と、盃を主水の前に投げた。

主水はその奇行に肝を潰すが、何食わぬ体で畏まりその盃を受け取ると退出していった。

さてその後、隆信は博多に留まり、信周を大将に出馬する。
(筑後・肥後の用人の為、50,000から分けた人数:人数の詳細は不明)

秋月の弟・高橋元種が自身の居城・馬ヶ岳城へ信周を入れると、
豊前の城持ち城井鎮房・長野鎮辰、ほか規矩・田河・仲津らの郡士らは、一戦に及ぶ事無く龍造寺に従った。

信周は戦わずして豊前を治め、しばらく滞在して政務を執り行った後に帰陣した。

隆信は石田信能を代官として博多に置き、自身は佐嘉へ帰陣する。

一方、鍋島信生は蒲池鎮並攻めの最中であり、再び柳川へと赴いた。

また、虜となっていた小佐井鑑直は、9月22日に豊後へ送り返された。

さて、蒲池鎮並は柳川城に籠り、叛乱は既に300余日に及んだ。

田尻鑑種は様々働き、ようやく11月28日、鎮並が龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)の陣へ現れ、双方の和が成った。

このとき、鎮並を龍造寺の婿とする約定を交わす。

************************************************

秋月種実の次男・高橋元種には種実弟説があります。

このカテゴリ「北肥戦誌」は全文ではなく、鍋島・竜造寺・少弐関連を抽出したものですので、
予めご了承ください^-^
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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