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【水俣城返還交渉・前編】相良氏、相良義陽---16

さて、ひさびさなので軽くおさらいです^-^

相良家で恋に目がくらんだ不心得家臣が引き起こした内乱(獺野原(うそのばる)の戦い)が起きた1559年。
この年は豊後の大友義鎮(後の宗麟)が豊前・筑前の守護職になり、引き続き九州探題に任命され、大友家は全盛期を迎える。

この時期に内乱してた相良が無事だったのは、短期間で終息したのもあるが、キングオブ義鎮の関心が筑前・豊前に集中していたからです。
1559年は、秋月種実が本城である古処山城を大友から奪還し復活。
さらに筑紫惟門がハチャけて博多に侵攻~筑紫に呼応した秋月種実が古処山城で籠城してました。

大友義鎮の財政源である商都・博多は見る影もなく一面の焼野原~~~~~~~
この時の戦火で一時期、博多の領民・商人は大島に避難してたそうですから、ガチで酷かったようです^^;

これに怒った大友義鎮は筑前制圧にマジになった。
何より腹立たしいのは秋月も筑紫も毛利元就のバックアップ受けてる事だ。

この数年前にも大友は毛利元就に対して「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.筑前に介入するんじゃねぇ!(超意訳」
と手紙書いてるが、元就ジーちゃんはガン無視、大友軍の攻撃を受けた筑前の国人達に対し保護を与えてる。

1559年の時、大友義鎮は博多復興を優先し、降伏してきた秋月も筑紫も許して我慢した。
ところが翌年の1560年に「毛利の支援受けた宗像氏貞(筑前国人)が」「大友が支援した宗像当主(氏貞の従兄弟)を」討ち果たし、宗像領をゲッツする。

大友「宗像ァ~~~~怒・怒・怒・~~~毛利ていどの家格でウチと張り合うってのか!!」

つまるところ筑前・豊前の覇権を巡って国人たちが代理戦争をしていたわけだが、
ブチ切れた大友は1561年に毛利元就と直接対決(門司城合戦)し、そのまま泥沼の10年戦争に突入しちゃう。

10年戦争といっても、戦しっぱなしだったわけじゃなく「和睦する」「しない」「和議で結婚?家格がアワネ」とグダグダな10年です^^;
中国地方の新たな覇者・毛利氏と交戦状態が継続したままだったのが、大友義鎮の足枷となった。

この間に龍造寺・島津・伊東の台頭を許してしまうことになり、肥後も(大友から見て)エアポケットな状態となる。
たかが国人、されど国人・・・歴史は現場で動いてるんだ!(織田祐二クン風で♪)

人物・大友宗麟
(ワシ全盛期だったのに、どこで選択を間違えたんだろう~(by宗麟)

さて、肥後に話を戻そう。

1559年の11月7日~阿蘇家当主・惟豊が死去し、息子の惟将(これまさ)が家督を継ぐ。
主君のためなら我が子を処断する苛烈忠義の甲斐宗運は粉骨砕身、新当主にお仕えします^-^

1560年?月~代替わりがチャンスと惟将の従兄弟・惟前が肥後小国へ侵攻する。
これには少し説明がいるだろう(てか、かなり前に説明してるけどブランクありすぎなので)。

阿蘇家の当主は、もともと惟前のダディ惟長で、1559年に亡くなった惟豊の兄です。
阿蘇惟長は「肥後守護職になりたいなぁ (人´∀`).☆.。.:*・」と能力以上の地位を欲し、
縁戚の大友の支援を受けて、肥後守護職の家柄である菊池家の当主となった。

その際に阿蘇家の家督を弟に譲っちゃったの^^b
でも菊池家臣は「大友の傀儡じゃん、ふーん」と惟長を軽く見て心底から従わない。

「思ってたのと違う~つまんない~お家(阿蘇)に帰るの ((((((((((っ´▽`)っ」と勝手に帰った我侭な阿蘇惟長。
だが家督は弟・惟豊に譲ってる。

兄・惟長「ね~実家に帰ったから家督返して」
弟・惟豊「~~~~~~~怒・ざけんな!」

とまぁ、こういう経緯で兄弟で争うことになり、甲斐家は弟・惟豊サイドについたんです^^
菊池家の家督もグダグダになり、結局は大友家に乗っ取られ、ついには名門菊池家は滅亡します。

惟長・惟前親子は島津の支援で一度は阿蘇の家督を奪い返したけど、そんな横車がまかり通るはずもなく、
間もなく惟豊・甲斐家ラインに敗れて八代に亡命しました。

相良家の対応は?というと、阿蘇家の家督争いに介入~これには名和家も絡むが説明すると長くなるので省略^^
とにかく、兄・惟長を支援して、惟長の息子・惟前に16代相良義滋の娘が嫁いでいます。
だがら阿蘇惟前は相良義陽の縁戚で、義理の叔父にあたります。


家紋・相良
(相良家紋ロゴ)

1560年に義理叔父・惟前がリベンジ侵攻した時に、相良家が援軍したかまでは解りませんでした。
ですが相良家では16代が死に、17代が死んで、すでに18代義陽の代で、
相良が支援した惟長も、相良が敵対した惟豊も、共に鬼籍に入り代替わりし、
更に今の阿蘇家には頼もしき守護神・甲斐氏がガッチリ・ガードしてて、もはや惟前が返り咲くような時勢では無い。

惟前はリベンジならず撃破され、生死も定かでは無く歴史からフェイドアウトします。
惟前に嫁いだ義陽の叔母(義理)が、相良家に戻れたかもネット検索では解りませんでした。

しめっぽい話はやめ~~この年(1560年)5月19日~桶狭間で織田信長が今川義元を討ち取る!
同年の5月、前年に菱刈家に奪われた水俣城の返還交渉が始まった
水俣城の返還交渉には天草の国人たちが活躍しました^^

菱刈家と相良家は二重三重に婚姻関係を結んだ、戦国としては珍しく半世紀に及んで固い同盟関係だったのだが、
義陽の父・晴広が40代の若さで病死してから風向きが変わった。

義陽の後見役だったグランパ上村頼興が死ぬと、上村の三人の息子(義陽の実叔父)が謀反を起こすのだが、
その謀反に菱刈一族の者が加担してたんです。

その菱刈一族の者は謀反鎮圧時に討死しましたが、それでケリがつくはずもなく、以来、同盟関係はギクシャクし、
1559年の5月(恋に目がくらんだバカ家臣が重臣を煽ってるころ)に、菱刈が水俣城を相良から奪ってしまいました。



困ったのは相良家もだけど、天草地方の国人たちもです。
だって水俣城は天草諸島のすぐそばだもん。
彼らは相良家と友好関係で、相良家が行う明との交易からも何らかの恩恵があったと思われます。

菱刈と相良が敵対してたままじゃ、どんなトバッチリが来るか解らない。
さらに1559年の内乱の時に、かつて謀反した叔父たちが義陽に許されて帰国してるではありませんか。
(仕方無いだろ~兵力不足だし、ほっとくと日向の北原に利用されるからだよ!by義陽)
内乱は鎮圧・恋に目がくらんだ(略)+入れ知恵した僧侶は1560年に処刑され、戦後処理は終わりました。

天草ふぁいぶ(5人衆)の国人たち「この流れなら菱刈と相良の和睦交渉はイケる!」と行動を始めた。
義陽にとっても、内乱後の相良家中の沈滞ムード【リアル喪中】を払拭する朗報~まさに「渡りに舟」。

次回「水俣城返還交渉・後編」それは・またの話 by^-^sio
(相良史は毎週日曜日の更新です(^ -)---☆Wink)
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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