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【北肥戦誌・1581年】蒲池氏謀殺

龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)が政家の前に、「久家」と号す。


蒲池鎮並が密かに島津側に通じている事が、この夏に発覚する。

鎮並は、同国の西牟田鎮豊へ使者を送り、島津家老・伊集院忠棟よりの誓紙への返書を見せ、島津へ味方するよう勧めた。

しかし西牟田はこれに同意せず、家臣・向井左京亮を派し、伊集院よりの書簡を携えて龍造寺当主・久家へ報告した。

須古城に居る隆信が、ならば鎮並を討つべしと考えた矢先、
鎮並は筑後へ置いた目付・田原伊勢守へも叛意を促していると判り、急を要する事態となった。

とはいえ、堅城たる柳川城を攻撃しても又も手間取ると考え、今回は一計を案じた。

5月20日頃、龍造寺家は田原伊勢守・秀島源兵衛を使者として柳川へ送り、
鎮並に対し「昨年の冬の和平より以後、いまだ逢って居らぬ。されば、近いうちに佐嘉へ来られたし。その際には須古の新館にて猿楽を催すゆえ、其処許よりも猿楽の役者共を召し連れて参られよ」と述べさせた。

だが鎮並は、病と称してこれに返答しなかった。

田原は賢い者で、これでは叶わないと思い、鎮並の母・貞口院と、伯父(別腹の兄とも)の蒲池鎮久へ、隆信父子よりの何らやましい事がないと起請文を以って申す・・・など様々に謀る。

(『フロイス日本史』によると、隆信は鎮並を信用させる為、大村純忠一行500人を佐嘉へ呼び、これを歓待したという。)

母も鎮久もこれを信用し鎮並を説得すれば、鎮並もようやく田原・秀島と対面、承諾の上、佐嘉での守備を頼むと、両人に黄金一枚ずつを下賜した。

隔して5月25日、伯父・左馬大夫を始め、親類・家人ら200余騎、役者を入れると300余の人数で柳川城を出立した。


それを聞き付けた鎮並の縁戚で、田尻5ヶ城の城主の一人である大木統光は、その道中にある鎮並の元へ向かうと、
「御辺は気でも違えたか。うかうかと出向くなど、石を抱いて淵に入る様なものである。ここは思い留まられよ」と述べるが、

鎮並は「もはや斯様出立致した上は、阿容阿容(オメオメ)と引き返すなど見苦しかろう。その上、天運統べからば、縦令(たとい)剣戟刀杖の中たりとも豈(あに:決しての意)恐るるに足らず」と発し
馬脚を早めて寺井江を渡り、夕方に村中城下へ着いた。

そして久家へ、和平の挨拶を述べる。

その夜は鍋島信生同席の上で酒宴となった。

それが終わると鎮並らは、城外の北側にある本行寺に宿を取り、翌26日は逗留する。

須古の隆信は土肥信安を使わし、鎮並に酒肴を贈った。

鎮並は悦び、その酒肴で出雲守を饗応する。

鎮並は猿楽の上手で、出雲守を前に猿楽を踊って見せた。

出雲守は明日の運命を思い不意に落涙するが、鎮並はこれを自身の芸を面白がってのものと思った。

そして27日未明、本行寺を発って須古を目指す途上の、興賀の馬場を通ったときである、
龍造寺の伏兵である小河信貫・徳島長房・水町彌太右衛門・秀島源兵衛・石井の一族らが、四方より一斉に鬨を上げて襲い掛かった。

鎮並は歯噛みして伯父・左馬大夫へ
「口惜しき次第かな、我が柳川にて懸念致した通りであった。これも天運やも知れぬが、偏に御辺の勧めに依りて計略にはまったのであるぞ」と憤激する。

左馬大夫はこれに何も答えず、謀られた怒りに血が上り、「我らに二心在らざる事、只今見給うべし」と言い捨て様、
興賀大明神の鳥居の前まで馬を駆け、「汚き龍造寺が仕業かな。おのれ、七生が間は恨み続けてくれる」と発する。

そして矢を二筋三筋放つと家の上に駆け登って散々に矢を射掛け、屋根の上から飛び降りざま烈火の如く戦うが、堤左馬允と渡り合い、遂に討ち取られた。

龍造寺勢は多大な被害を出しながらも173人を討ち取った。

鎮並は一族・家臣が討ち死にする隙に、小さな家に立ち入って沐浴した後、腹掻き切って息絶えた。

隆信は鎮並の残党を退治するよう、田尻鑑種に下知する。

鑑種の姉が鎮並の母である為、鑑種は正しく鎮並の伯父であるが、これを了承する。

このとき柳川城に居た鎮並の弟・蒲池統春は田尻と談合し、
「我らは龍造寺に対して別心はない。もし城に籠って残党に与すれば、没落は必定である。ゆえに我らは龍造寺への忠義を示し、城を退去する」と述べた。

田尻はそれを龍造寺に伝えると、その許諾を得て、統春一党100余人は田尻の領内・佐留垣村へ引き退いた。

さて柳川に残った残党・豊饒鎮連・蒲池統康ら男女500余人は全て、柳川城より一里ほど巽(東南)の方角にある塩塚城に籠った。

鎮並の母は、田尻の誼で田尻の館へ迎え、鎮並の幼い娘は乳母が田尻の元へ連れて来た為、それを受け取った。

だが鎮並の今年6歳になる男子・統虎丸らは塩塚村に立て籠る。

そして6月1日卯の刻、田尻は龍造寺の命で塩塚城へ攻め掛かる。

その数は2,700余騎。そこへ鍋島信生ら佐嘉勢600余騎も加わった。

隔して蒲池勢は午の刻、我先にと切って出る。

鎮並の家人は、田尻の家人とは伯父・甥・兄弟の間柄であったが、他人よりもなお激しく戦い、乱戦となった。

昨日まで親しかった親類縁者が、只今は敵味方に分かれて、思いも寄らぬ修羅の励みを為す事に、涙せぬ者はなかった。

さて柳川勢500余人は、老若男女問わず唯一人の生き残りもいなかった。

(※その中には、隆信の娘・玉鶴姫もあったようだが、『北肥戦誌』には玉鶴姫に関する記述は一切ない。)

寄せ手の田尻側にも戦死・深手が続出(討ち死に108人、手負い836人)、水無月初旬の頃に青田も堀も死体で埋まり平地となっていた。

田尻は討ち取った首を船二艘に乗せて肥前へ送り、隆信の首実検に入れた。

そんな折、鎮並の子・統虎丸が胡仙という山伏と主従3人に伴われ、田尻の居城・鷹尾城へ現れた。

幼子である為、田尻もこれを助けたかったが、男児ともなればそうもいかず、
これを高来へ送ると偽って船に乗せ、上妻刑部丞ら3名程を警固と称して入れ、これを殺害するよう命じた。

だが胡仙はこれを悟り、上妻刑部を斬り伏せる。

しかし結局は、他の者に胡仙統と統虎丸は斬り殺された。

次いで龍造寺家は、佐留垣村の統春らの討伐を田尻に命じる。

田尻はこれを容赦するよう願い出るが、隆信は承諾しなかった。

隔して6月3日、佐嘉より筑後衆へ下知が飛び、佐留垣の城を攻める。

肥後衆の小代伊勢入道宗禅、肥前衆の納富家理・田原伊勢守・秀島源兵衛らが加わり、一斉に諸口より攻め掛かる。

統春一党100余人は一人も残らず斬り殺され、その首は統虎丸の物を加えて船一艘で肥前へと運ばれた。

諸人は龍造寺のこの仕打ちに、「恐ろしや」と眉を顰めた。

鎮並の死後、鎮並を止めた大木統光は肥前木原村へ来て、

伝手を頼って鍋島信生・小河信貫へ「此度鎮並が供を致さず残念の仕合にて、その追善が為、切腹致したく候」と述べた。

それを隆信へ報告すると、義ある武士なりとこれを賞し、切腹を思い留まらせ筑後へ帰した。

大木は以後に浪人となり、後に宗繁入道と称する。

その数年の後、小河の取りなしで鍋島家臣となっている。

また、この乱により筑後国は、残党討伐を果たしても不穏な状況となり、
止む無く当主・久家と信生は柳川城へ住まい、その鎮静化に努めた。

その一環として、6月22日に豊饒鑑連と塩塚城へ籠った、その子・豊饒新介を誅伐、
同月下旬、筑後は戸原河内城主・戸原薩摩入道紹真が、居城を補修の上で籠城、佐嘉への通路を塞いだ。

実は戸原は鎮並に近しい縁戚で、鎮並の不慮の死に対し隆信の不徳を憤っていた。

久家は実弟・後藤家信の6,000余騎に、これに参じた草野鑑員・西牟田鎮豊・高良山座主・麟圭らでこれを攻めさせた。

戸原は暫し堪えたが、結局敵わずに降参した(落城はこのときではないとも)。

7月、今度は、田尻も龍造寺に異心を抱いており佐嘉勢が討たんとしている、との風聞が立った。

田尻がこれにより疑いを抱いた為、隆信父子はその様な事はないと田尻へ起請文を提出、田尻も起請文を返した。

結局、田尻には鎮並討伐の功に依り約束通り、9月初旬に久家より千町のうち先ず680町が下賜された。

9月下旬、薩摩の太守・島津義久の弟・島津忠平は肥後の八代へ攻め入り、
大友・龍造寺方の城々を攻めるべく大町杉島まで出陣した。

これは、この頃に島津に属していた宇土の伯耆顕孝・隈本の城親賢が差し招いたためである。

これに甲斐宗運は人数を率い、龍造寺方と評定してこれを防ごうとする。

しかし忠平は急には軍を動かそうとしなかった。

球磨の相良義陽・阿蘇惟種ら龍造寺方は甲斐と談合して、隆信より南の関に差し置かれていた龍造寺家晴まで援兵を乞うた。

これに依って家晴は、早速に軍兵を催して甲斐の本城・御船まで進軍する。

これに依って島津勢は八代へ引き退く。

(※この年の9月頃は、島津勢は相良家の水俣城攻囲の最中、或いは相良家が降伏・恭順した直後であり、相良領である八代に攻め入る理由が無く、上記は事実無根も甚だしい。
また、この頃はまだ、甲斐家・阿蘇家は大友から龍造寺に転じてない筈である)

龍造寺へ出された人質は柳川城へ置かれる。

有馬鎮貴(前名:義純)の質である島原大学助・石黒備中守、島原純豊の質である嫡子・島原木工左衛門、安富純泰(後に深江姓)の質である嫡子・深江助四郎、赤星統家の質である嫡子・赤星太郎(新六とも)、草野長門守鎮永(筑後草野氏。もう一人の草野鎮永(肥前草野氏)とは別人:前の名は家清)の質である嫡孫・草野幡千代、隈部親永の質であるその次男、祝部の質であるその妻など多数。

************************************************

記事本文は北肥戦誌の中で竜造寺・鍋島・少弐関連のみ抜粋したものです。

北肥戦誌は肥前の貴重な郷土資料ではあるものの、
江戸期に書かれたものなので、肥前以外に関しては結構間違ってる( ̄ω ̄A;アセアセ

戸原とあるのは、筑後大友直参衆の一人・辺春氏のことです。

一応だけど、島津義久の弟・忠平は島津義弘のことです^-^
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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