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【北肥戦誌・1578年】その2

隆信は大友が日向に在って島津と戦う隙に、大友騎下の者共を切り従えんと、柳川の蒲池鎮並と共に11月19日に筑後国へ討ち出る。

先陣は鍋島信生、二陣は納富家景、三陣は龍造寺家晴・四陣は松浦党、五陣は後藤家信、六陣は龍造寺長信、七陣は江上家種、八陣は馬場鑑周、九陣は神代長良の名代・神代家利と千布家利、殿軍は隆信の旗本と、以上都合20,000余騎が筑後国三瀦郡酒見村に至って陣を布いた。

これに久留米の豊饒鎮連、草野の草野鑑員、下田の堤貞之、西牟田の西牟田鎮豊を始め、酒見・城島の者達が続々と隆信の陣へ馳せ参じて、帰属を申し出た。

隆信は大いに喜んだが、戸原河内城主・戸原薩摩入道紹真、山下城主・蒲池鑑広、古賀城主・三池鎮実らは隆信に従おうとせず、自らの居城へ引き籠った。

隆信はまず戸原入道を攻めんと、龍造寺信家・龍造寺信門・内田美作入道卜菴・姉川信安・副島光家・鹿江信明を率いて戸原河内へ向かうも、そこへ伊駒野城主・河崎鎮堯が多勢にて戸原を救うべく来援した為に、龍造寺勢は敵わず退いた。

隔して11月下旬となり、隆信は先ず筑後を差し置き、筑前に討ち入って敵地を巡見すべしと、
12月1日に酒見の陣を払い、そのまま筑前国へ向かった。

これに秋月種実・筑紫広門が急ぎ参陣し、他に早良郡の者達が駆け付ければ、
隆信は彼等を案内役に、大友方の戸次・高橋の居城である立花・岩屋・宝満の城を攻めるべきと評議するも、
秋月・筑紫らは皆、以上何れも堅城で容易には落とせまいと述べる。

隆信は止む無く、まずは馬を返すべしと、佐嘉へ帰陣した。

このとき、筑紫広門の弟・筑紫晴門が11歳となったのであるが、鍋島信生の養子となり佐嘉へ同道して行った。

また秋月種実は、大友宗麟の暴悪「十ヶ条」を掲げて、筑前一国のみならず諸国へ触れ廻すと、諸将はこれに同意し、宗麟に背く者達は連判を為した。

大友宗麟は耳川の敗戦以後、国政に乱れが生じ、老臣・大和入道紹徹を誅伐する。

これは紹徹の嫡子・鎮周が耳川の戦いで一番に討ち死にし、味方に弱みを造作ったと宗麟が大いに誹謗し、更にその功を立てられず、紹徹が恨みに思ったからである。

また、府内の侍である古庄左京允兄弟・朽綱市祐・雄城惟周は理由なく勘気を蒙り出国する。

これにより大友家臣には主を恨む者が多くなり、宗麟は威勢を失った。

また隆信は、田原尚明を備後へ差遣し、小早川隆景の元へ出向き、足利義昭への御礼を遂げさせた。

更に、諫早に人質として送っていた秀島家周を、今度は蒲池家の人質として柳川へ置いた。

更に、筑後は山門郡の鷹尾城主・田尻鑑種の伯父に田尻山城入道宗達(旧名:山城守鑑乗)という者があったが、
隆信は龍造寺家臣に宗達の知己である岩楯という者があると知り、この岩楯を使いに従属するよう述べると宗達は承諾、
12月22日に隠居・隆信と現当主・龍造寺鎮賢(後に政家)に起請文を提出、大友と手切れした。




最近、必要に迫られて筑後郷土史も同時進行で調査中でつ( ̄ω ̄A;アセアセ

文中にある戸原氏とは辺春氏の事で、辺春氏は筑後における大友直参衆(三三頭)です。

筑後には有力国人15氏の他に、大友直参衆が24氏あって・・・複雑(涙)です。

ま、負けるもんか~~~~(`・ω・´)キリッ

話変わって筑紫晴門~~北肥戦誌では広門の弟説なんですね~~

いや逆か、晴門弟説の出典が北肥戦誌かもです^^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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