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相良義陽_1【少年当主誕生】

5月は肥後戦国史月間です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1543年・・・後に相良義陽の正室となる千代菊(義滋の娘なので義叔母にあたる)が産まれる。
一つ上の姉さん女房ですね(*´艸`)

さて、相良氏17代目当主・晴広は、16代目当主・義滋の養子でした。
晴広は、1542年に名和氏の妻と離縁した後、再婚してるのだが中々子宝に恵まれないまま三十路超え~~~

晴広が類いまれな名君だろうが、実父・上村氏が実力者だろうが、後がなければ話が続かない。

 |相良義滋(養父)+上村(実父)+相良家臣一同 |_ ̄)じー・・マダ? 

見えないプレッシャーを受けつつ励んだ結果、今度はハッスルしすぎたのか正室と側室が同じ日に男子を産んだ。

1544年・天文13・2月8日~相良義陽と弟・頼貞が産まれる
御家騒動の多い相良家では揉めるのは間違いなしですな ( ゚Д゚)y─┛~~

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

義陽の生母・内城(ないじょう)は数えで二十で、今ならヤンママ(死語?)だが、戦国ならば遅い方。
でもって正室の内城と側室は、晴広の初婚が政略結婚だったのに引きかえ、どちらも家来筋。
これは冒頭で上げたように、子作りにハッスルするために、メンドクサイ家柄の妻を避けたのだろう。

元々が家来筋なので、内城と側室の地位(扱い)は男子誕生までは高いものでは無かったはずだ。
そのせいか、二人は共に実家で出産している。
(占いで「実家で出産するのが吉」と出たかもだが)

もしかしたら、男子出産までは双方ともに側室で、子供が生まれてから「正室」「側室」が決定したかもしれない。
側室は、晴広が巡視の時に訪れた家臣のところで見初めた娘だけに美貌の持ち主だが、武家の正室に必要なのは能力で、顔で選ぶのが側室だ。

正室は奥向きを宰領したり、家臣への心配り、他家の奥向き同士の交流など、当主の公私に渡るパートナーでなければならない。
蝶よ花よで育ったブッチギリの名門お嬢は、乳母が代行して仕切るのでつ(*´艸`)
男子誕生の時点で、「正室」の任が務まる内城が選ばれ、義陽が嫡男(暫定的に)となったのでは無いだろうか。

何せ戦国時代は跡継ぎを決める「明確な基準(長子相続)」が確立しておらずファジーなんです^^;
でもって正室と側室の定義もファジーで、曖昧なとこがあるんだよなぁ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
つまり戦国時代だと、側室も政略結婚で選ばれる事があるので、妻の地位は「実家の格」が物を言うんです。


1545年・天文14~12月~相良義滋と晴広が室町将軍・足利義晴から偏諱(へんき・名前の一文字を貰うこと)を受ける
実は便宜上、名前表記を統一していたのだが「義滋」「晴広」と名乗るのは、この後からなんです。

貰った字は「義」と「晴」。
ちなみに足利家の通字(つうじ・代々受け継ぐ文字)は「義」なので、「義」を拝領する方がグレードが高い。

つまり足利将軍家代々名乗る「義」を養父が貰い、当代の名乗りの文字「晴」の方を養子である晴広が貰ったんです^^b
で・室町幕府から偏諱のための使者が、はるばる肥後・相良家まで下向してます^-^

1546年・天文15~前年の名誉と相良家の順調な発展ぶりにホっとしたのか、16代義滋が亡くなる
だから義滋って名乗った期間って、実は一年未満だったりする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、晴広が34歳で家督を継ぎます。
時代感覚で言うと、竹千代と呼ばれていた徳川家康が、今川家の人質となるのが1549年です。

1548年~相良義陽(数え5歳)が、球磨・芦北・八代の老臣合議で正式に世継ぎとなる
シオは、これまでは暫定的(内向き)に嫡男とされていて、1548年に公式発表な感じで正式決定したんじゃないかなぁ~って解釈してます。

これは武家の男子の教育課程も関係してると思ったからです。

武家(だけじゃないが)男子は、5歳で「袴着の儀」の祝いをします。
それまでの童姿(お河童ヘア)から可愛らしく髷を結って、おコチャマサイズの紋付袴の着用がOKになるのね^^
「七・五・三」のうちの五の祝いで、宮中では今でも古式に則って儀式が行われます^^b

でもって戦国・武家の場合、7~8歳くらいから現場・・もとい戦場を実地で見学させて慣れさせる。
立花宗茂も年少の時に罪人の処刑なんかに立ち会ったりしてる(ちなみに全く平常心だったそうです)

でもって嫡男ともなると庶子とは受ける教育が違う。

馬術・剣術・弓術(時代とともに鉄砲も入り、槍は好みで)水練(衣服着用での状態含む)・といった個人的武技はもちろんのこと、
(ただしブッチギリの名門クラスになると心得があればOK~)

出陣の儀式・首実検の儀式・祭祀の儀式・花押の書き方(各武家の家紋&花押の暗記込み)。
戦場における軍配の使い方・城の秘密の抜け道とか・領内統治など帝王学。
名門の素養として和歌に書も(時代とともに茶道が入り・ぶっちぎり名門だと蹴鞠や犬追物も)覚えなきゃ~

あ~~!
あと能や狂言に舞(観るだけじゃなく演じるレベル)・鼓(演じるのに必要・笛は好みで)と数限りなくあり。
で、家臣と主君じゃ、あらゆる儀式の立ち位置と所作が違う~とにかく5~6歳から教育しないと間に合わない^^;;

つまり、いよいよ嫡男としての本格的教育を受けるにあたり、
家臣から心効いた者を「後見役(複数可・習い事の師匠とは別で武将としての後見)で元服時に任命」考えなきゃだし、
遊び相手としての小姓(一緒に学問・武芸に励む将来の幹部候補生)も選ぶので、
年齢的に、嫡男が誰なのか公式発表する時期に来たってことです。



1550年に「肥後の反乱(大友側から見て)」が起きて、相良晴広は謀反側だったが、反乱鎮圧後も大友と事を構えることなく終息した。
このあとは「大寧寺の変」で大内義隆が討たれ、中国~北九州にかけての勢力分布が激しく変動する。
さらに豊後の大友家では「府内の乱(家臣の謀反)」が起きて落ち着かない。
この間に晴広は天草地方に介入し、天草地方から長島氏を追い出すことに成功し、明との交易ルートの安全を確保した。

1555年・天文24年~晴広は「相良氏法(分国法の原点)」を発布する
これは1400年代から1555年まで、3代に亘る相良家当主が編み出したもので、晴広の代で完成を見る。

晴広は41歳の時に筋骨に激痛が走る奇病に罹り、占いで10年前に離縁した前夫人の祟りと出て、真言僧らにより鎮められ平癒している。
祟り云々は別にして、この時に何らかの病を併発していたのかもしれない。

同年の8月12日~43歳の若さで相良晴広は病死
相良義陽は若干12歳で、相良氏18代当主となって家督を継ぐことになった。
名君の死・少年当主誕生で相良家周辺は俄かに騒がしくなるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回「グランパ・上村頼興」
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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