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【デヴュー・戦国大名】相良氏、戦国名君編11

1544年8月27日、菊池義武が相良の元を離れ島原・有馬へと旅立った。
相良家で最も知名度のある当主・義陽は同年2月8日に誕生した。


父は名君の誉れ高い17代目当主・清為(後の晴広)。

前回、語ったように為清は、1542年に名和氏の妻と離縁した。

そのあと彼は、上田氏から内城(ないじょう)を継室に迎えた。

同じく1544年(天文13)2月8日~為清の側室が頼貞を産む。

1542年に離縁してすぐ再婚して、1544年に正室と側室が同じ日に男子を産むって、
どういう家族計画なんですか為清さん(/▽*\)キャァ

正室の内城は申し分のない賢婦人だが、女として為清がカワユイ~
と魅力を感じて寵愛してるのは側室の方だったらしい。

だが名君・為清は惻隠の情に流されることなく、嫡出子である頼房を長男とし、庶子の頼貞を次男とした。

さらに家督争い回避のため「次男は10歳になったら出家~~」と公表し筋目を明確にする。

だが折角の配慮も為清が44歳の働き盛りで急死しために、御家騒動が起きるのである。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

1545年4月、阿蘇惟豊・名和武顕・相良長唯によるNEW三家和合が成立する。

一見、デジャヴュなNEW三家和合ですが、中身が変化してます。

1539年三家和合と1545年三家和合では、阿蘇氏が違うんです。

阿蘇氏は肥後菊池家の家督に介入した事に絡んで、兄・惟長系と弟・惟豊系の二系統に分裂しました。

1539年三家和合の阿蘇氏は兄・惟長系。
1545年三家和合の阿蘇氏は弟・阿蘇惟豊です。


1542年に為清と名和娘が離縁し両家は交戦状態となって和合破綻。

惟長系・阿蘇惟前も、1543年に叔父である阿蘇惟豊から攻撃されて歴史からフェイドアウトしました。

更に1539年三家和合は、元肥後守護職・菊池義武のリベンジ助力を掲げていました。

その菊池義武も1545年に、寄宿していた相良氏の元を離れています。

1545年NEW三家和合は純然たる和合で、阿蘇家の家督争いに端を発したゴタゴタの関係修復のためと思われます。

家紋・阿蘇(阿蘇家紋ロゴ)

一安心と思いきや、同年6月15日~相良治頼が謀反起こしますヽ(。_゜)ノアリャリャ

治頼は12代目当主の曾孫です。
謀反そのものは失敗し、彼は日向経由豊後という定番コースで亡命します^^;

翌年に治頼は死亡するのですが、その後に彼の祟りがあったと噂されてます。

まぁ、謀反と祟りがセットメニューなのが相良家の特徴でもありますな ( ゚Д゚)y─┛~~

1545年12月、相良氏が足利将軍・義晴より偏諱を受ける。
16代目長唯が義滋、17代目為清が晴広と、それぞれ改名した。

戦国大名・相良氏、誕生の瞬間です。

戦国大名の定義って、実は結構ファジーです。

特に困るのが在地領主(鎌倉以来ってのね)や国人領主(地元民)の扱いでして( ̄ω ̄A;アセアセ
彼らが「何時」から戦国大名になったか?って境目を決めるのはケースバイケースなんです^^;

一応の目安として、
1・一か国または数郡を領していること
2・朝廷から本物の官位を貰ってる事
3・領内統治がキチンと為されている事(分国法があれば尚可)
4・国人を被官として配下にしている事

相良氏は、数代かけて法度(分国法)を作り、17代目晴広が1555年に完成させて発布しています。

分国法完成以前に、相良氏は既に八代・人吉・水俣三郡を治めており、
これは推測ですが大隅・菱刈との同盟も対等なものではなく、
菱刈が相良への一種の被官状態だったようなんです。

更に未だ権威が残っていた足利将軍家からの偏諱をもって、
相良氏が対外的に戦国大名としてみなされたと、シオは考えています。

それは同時に、肥後守護職である大友氏から南肥後の相良氏が自立した事を意味するのだが、
それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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