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【北肥戦誌・1582年】

この年、筑後・柳川在陣中の龍造寺久家が政家と改める。
また、鍋島信生も、実はこのときまで信昌であり、この年から信生と改めている。


2月、筑後国上妻郡猫尾城主・黒木兵庫入道宗英と、その子・黒木家永が龍造寺家に背いて籠城する。

これを攻めるべく政家は、小河信貫に5,000余騎を率いさせ猫尾へと向かわせる。

しかし草野長門守鎮永(筑後草野氏)が仲裁に入った為、黒木は嫡孫《黒木四郎》を人質として再び恭順の意を示した。


8月2日、政家と信生は柳川城から鵜川を逍遥し、瀬高上ノ庄へ鵜飼見物に出たのであるが、これがどういった理由か、
「政家・信生は田尻鑑種・蒲池家恒が叛意を抱いていると聞き、鵜飼の川刈りに事寄せて二人を招き、その場で討ち果たす企みである」との世上の風聞が立ったのである。

蒲池は驚愕し、田尻に対して自身は龍造寺家に異心はないと伝えたが、田尻は敢えて無実との申し開きをしなかった。

また、この風聞に隆信・政家・信生も大いに驚き、風説は根も葉もないものとして、隆信・政家、信生、小河、納富ら数通の起請文を田尻へと送った。

だが、これでも田尻は信用せず、遂に10月4日に手切れを意味する様に、柳川に置いた人質・田尻千代松丸(田尻内記丞鎮清の子)を見捨て所々を放火し、居城の鷹尾城へ立て籠もった。

その他の4ヶ城である江ノ浦城へは、田尻但馬入道(大友の史料には常陸入道)了哲を、
濱田城へは田尻鎮富を、津留城へは田尻鎮直を、堀切城へは田尻鎮永(福山将監とも)を入れ、
兵糧・馬秣・弓鉄砲・玉薬に至るまで不足なく用意し、龍造寺勢を待ち構えた。


政家は自ら肥前勢20,000を率い、信生・後藤家信を伴って田尻の本城・鷹尾を攻めるべく出陣、これを三方から取り囲み、海の方へは杭を打って通用を断った。

諸口にて合戦が始まり、鉄砲が止む事無く発せられる。

5ヶ城からの援軍を断つ為に、城の廻り三里の間に堤を掘り続け、所々へ向い城を築き、船手には田雑大隅守を頭に番船を付けて海上を封鎖する。

それでも城はビクともしなかった。

攻め手は止む無く攻めるのを中断し、ただ囲み続けるに徹した。

そして評定の結果、先ずは江ノ浦城を攻めてみるべしと、鷹尾城を多勢で囲み続けたまま、信生・後藤の両将にて江ノ浦を攻める。

寄せ手は激しく攻め掛かるも、負傷者のみ無為に増やしたのみで、落城させるには及ばなかった。

止む無く二人は江ノ浦城攻めを諦め、再び鷹尾城攻めへと戻った。

だが、此方も攻め口に及んだ寄せ手へ雨の如く鉄砲を撃ち掛け、小河・鍋島・後藤勢は攻め口より退くしかなかった。

あまりの進展のなさに須古の隆信は立腹、ならば自ら出馬せんと、
成松信勝・高木太栄らを伴い、龍王崎から兵船を以って筑後の榎木津へ上がり、
肥・筑・豊の分国へ触れを出し大軍を催すと、小河信貫を軍奉行として鷹尾城を攻めた。

しかし、それでも城は落ちず、そればかりか却って負傷者を増やすに至り、隆信は虚しく須古へ帰った。

その後は向い陣を取り固めて城の四方を囲んだまま遠攻めとすると、政家・信生は柳川へと退いて行った。

昨年背いた戸原河内城主・戸原薩摩入道紹真が、再び背いた(或いは昨年の造反はこの年の記述か?)。

10月に田尻に与して居城へ立て籠もると、府内に通じて大友勢を引き入れようとした。

これを聞いた柳川の政家・信生は、ならばまず田尻攻めを後にして此方を攻めんと、10月14日に戸原河内へ三手に分かれて攻め込む。

先陣は小河信貫、二陣は蒲池家恒・西牟田家親を擁した鍋島信生とし、搦め手は後藤家信、山の手の先陣は高良山座主・良寛、二陣は納富家理である。

三方より一斉に鬨の声を上げて鉄砲を放つ。

これに城兵も鉄砲で応戦、まるで百千の雷鳴のようであった。

鍋島勢には神代名代の神代家利・内田美作入道卜菴も一つになり、頻りに攻め立てる。

だが、どの攻め口も死傷者を多数出したのみで、止む無く引き退いた。

16日、改めて戸原の城を攻める。

寄せ手は塀を破って城内へ侵入、城兵を薙ぎ払う。

そして信生手下の武藤貞清が又も火矢を放って城中を焼く。

更に中野清明も火を掛けると、戸原は防戦叶い難く、何れともなく落ち延びて行った。

政家・信生は柳川へと戻る。

但し、落城は8月だったとも、昨年だったとも、翌11年10月14日、或いは17日ともあり、判然としていない。


この頃、島津忠平・伊集院忠棟は肥後に在陣し、龍造寺方(阿蘇氏・甲斐氏、或いは合志氏の事か?)と戦う。

今年10月、龍造寺より肥後に於ける境界の城々へ番人を差し加えられる。

中でも横島の城番には高来衆を任じるよう隆信から下知が下り、
有馬鎮貴は安富徳円を差し出し、その他に安富純泰ら高来島の者達を10月9日より肥後へ渡海させ、
横島の城へ入れた。

佐嘉からの検使は下村生運である。


12月中旬、田尻は島津家に対し、従属する旨を申し出ると共に加勢を乞うた。島津側はこれを了承する。


またこの年、鍋島信生は背振山の僧・水上坊仁秀を介して、毛利攻めの為に中国へ在陣中の羽柴秀吉と初めて誼を通じた。

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竜造寺・少弐・鍋島関連のみ抜粋。

信生クンは天正10年から秀吉に接触してたのか φ(.. ) メモメモ
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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