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【北肥戦誌・1578年】その1

1月、隆信は再び有馬征伐の軍を起こして、大軍を以って高来の島へ押し渡った。

このとき、この島の安富純治・その子の安富純泰・安徳純俊を始め、力武対馬守・松薗伊勢守らが龍造寺に降り帰属した。

元来、安富伯耆守純治は此の国の者ではなく、
先祖である民部入道心空が 正応5年(1292年)11月6日に鎌倉殿(源家)より下文を賜りこの地へ下向、有馬と縁を結んでいたのであるが、
伯耆守は些かの怨恨があり、此度、島原純豊を通じて有馬に背いたのであった。

だが隆信は、昨年降参した神代貴茂は問題ないが、島原純豊からは人質を取るべしと、成松信勝・成富信種を遣わした。

両人は島原へ行きその旨を伝えるが、純豊は難渋して即答しなかった。

二人が力及ばず帰陣すると、鍋島信生が主従100余人に水町信定を連れて、島原城へ赴いた。

そのとき純豊は大幕を打たせ、一族・家臣ら2、300人を左右に置いていた。

信生は唯一人で幕内へ入り、人質を出すよう述べる。

純豊は尚も承服せず、あからさまに不機嫌を顔へ表した。

水町は危険を察知し、大幕を掴んで座敷へ押し入り、眼を剥いて拳を握り、勃然と気を発しながら座した。

それに他の鍋島家臣も続き列座すると、純豊は一転して顔を和らげて、嫡男・島原木工左衛門を鍋島に引き渡した。

高来の城持ちが悉く龍造寺へ靡き、領地が狭まり無勢となった有馬鎮貴(前名:義純)は、
もはやこれまでと、先非を悔いて隆信へ和を乞うべく、3月23日に安富純生を納富の陣へ遣わした。

隆信はこれを承諾し、嫡子・龍造寺鎮賢(後に政家)を有馬鎮貴の妹婿とする約定を交わし、有馬一族の島原大学・土黒備中守を人質として取った。

また、安富純泰の人質は嫡子の助四郎である。

(※『フロイス日本史』によると、隆信は有馬から千々石城を接収したらしく、小浜城という千々石城から南へ直線距離にして6.5kmの貧弱かつ防塁設備のない城のみ残された状況だったとする。但し、居城は日野江城だとするから、防波堤たる城が小浜城しかなかったという意味か? また小浜城の南西7.5kmに在る串山城も有馬の城らしいが・・・)

こうして高来が静謐に至り肥前統一を果たすと、隆信は3月下旬に帰陣した。

肥前国中は既に東西共に統べており、次は他国を従わせるべしと思い立ち、先ずは筑前国を攻めんとすぐさま大軍を催し、東肥前へ打ち出した。

そもそも筑前は少弐の分国で、その後に大内支配となり、近年は豊後の大友より知行して、西筑前の内の5ヶ所の城に豊後からの差遣した将を、中国の毛利への抑えとして置いていた。

立花城へは戸次(立花)伯耆入道道雪、岩屋城へは高橋主膳入道紹運、荒平城へは小田部入道紹叱、鷲岳城へは大津留山城入道宗周、柑子岳城へは臼杵新助鎮富が其々居た。

隔して隆信は神崎に着陣、先手には城原勢が努めるよう下知し、隆信実子・江上家種を大将に、執行種兼・諸岡安芸守・鍋島種房を軍奉行にて背振山を越えて、筑前の内の早良郡へ討ち入った。

これに、大友の暴政を不満とする脇山の住人・重松対馬守・大教坊圓信坊を始め63人(25人とも)が龍造寺家へ降参して、江上の陣へ参上した。

城原勢はこの者達を案内者とし、所々を焼き払いながら進軍する。

隆信は敵地は脇山の内野という要害を見付けると、その砦へ江上勢を執行種兼を頭に各番にして大友の抑えとして在陣するよう命じ、自らは一先ず佐嘉へ帰陣した。

~「耳川の戦い」の記述は省略~




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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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