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【昨日の敵が】寝返り上等【今日の味方】飫肥藩初代藩主編9

伊東家の家臣に稲津家がある。

伊東家が日向に下向する時(鎌倉時代)から仕えている家で、いわば譜代家臣だ。

その一族の裔に稲津重政という家臣がいた。

実は省略してたが伊東家は「朝鮮の役」での働きで、2万8千石から3万6千石に加増されている。

でもって稲津は大変に武勇優れた若者でして、伊東軍の主力武将として「朝鮮の役」で活躍したそうだ。

1598年・・・太閤・豊臣秀吉が永眠

主君の伊東祐兵(いとう すけたけ)は、世情が不安定になるのを見越して、
稲津重政を清武城の城主に抜擢し、さらに家老としての待遇まで与えた。

この時に稲津は25歳の若さで、いくら譜代の家柄とはいえ、他の重臣を差し置いての出世を妬まれることになる。

1600年・・日本人全ての運命を変えた「関ヶ原の戦い」を迎えた

病の床にある祐兵は、初めは隣の島津に倣って西軍だったのだが、土壇場(本戦前)で東軍に寝返る決断をする。

そして初陣の嫡男・祐慶(すけのり)の代行として、稲津重政に軍配(ぐんばい=軍の指揮権)を授けたのだった。

城・飫肥虎口
(伊東家の飫肥城~虎口(こぐち)です~小藩ながら良い造作~このアングル大好き(*´艸`)

戦国最盛期36万石だった伊東家・・・

伊東祐兵は、島津に敗れ没落した伊東家を小領主ながらも御家再興に成功した苦労人だけに、慎重だった。

自分が不在の伊東軍の命令系統が、不測の事態で乱れることがないように、
単に軍配を授けるだけでなく、今回の大将である祐慶の秘蔵の愛馬も貸し与え、
稲津に指揮官としての権威付けして命令権者を(念を入れて)明確にした。

つまり13歳の祐慶少年は「飾りの大将」であり、戦の全責任は稲津にある、ということなんです。

海千山千の祐兵は、万が一を恐れた・・・だってもしかしたら東軍が負けるかもだもん^^b

もし西軍勝利となったら「祐慶は初陣で子供だぉワカンナイヨで押し通し、稲津に責任押し付けて~・・ゴニョゴニョ」の腹積もり・・・。

大坂から船で九州は日向(宮崎県)に戻った祐慶少年は稲津と合流。

そして稲津&祐慶少年の元に、黒田如水から使者・宮川某が派遣された。
九州における東軍の中心者は、中津の黒田如水です。
黒田から使者が派遣されるということは、事前に祐兵が如水に相談して根回ししているとシオは考えています
黒田⇒伊東への使者派遣を以て「伊東家は東軍に属す」と、後の公儀裁定で正式かつ公式に認定された。


海千山千度なら負けちゃいない黒田如水は、使者・宮川を通じて伊東家に作戦を授けた
伊東軍の攻撃目標~~~隣の西軍・高橋元種の支城・宮崎城!

ここで、さすがの如水も予測できなかったハプニングが起きた。

高橋元種は「関ヶ原本戦が東軍勝利」と知って、速攻で西軍から東軍に寝返っていたからです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

いかに如水の知謀を以てしても、ネットもテレビも無い時代の、情報のタイムログの差だけは埋められない。

1600年10月1日~高橋元種の寝返りを知らない祐慶&稲津軍は、上方に出陣してて高橋元種が不在の宮崎城を攻撃する
高橋元種が西軍から東軍に寝返り、領地安堵が決定したのが9月23日
わずか7日間の差で、この攻撃は東軍同士の同士討ち・・となってしまった・・・!

祐慶少年と稲津が出陣したのは9月28日のことで、兵力は3000名~ヽ(。_゜)ノ へっ?

最初、数字が間違いかと思って、何度も鬼検索・ネットサーフィンした^^;

だって石高が3万6千だよ、通常の動員能力より一桁多いんです。

江上・八院の鍋島様同様に国許を空にして、さらに身分・年齢に関係なく男子全てに召集をかけたのでしょう。

とにかく城を囲むには喩え「枯れ木に山の賑わい」でも、城側の数倍の兵力がいるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

宮崎城の留守を守ったのは兵500とあるが、これも多すぎるようなぁ・・・(-ω-;)ウーン

だって高橋元種の石高は5万石でして、しかも上方に本軍を引き連れてるわけだから、
支城にそんなに残せる余力があるはずないんです( ̄ω ̄A;アセアセ

こっちも籠城だからぁ~って引き入れた城下の農民とかを「兵力」にカウントして・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

とにかく稲津の攻撃により、宮崎城は一日で陥落。

高橋元種の家臣の城代が討死し、攻撃側の伊東軍にも50人の死者が出た。

この同士討ちは、事前に如水と連携を取ってたおかげで「東軍としての行動」とされ、
「同士討ちになったのは、知らなかったからやむを得ない」と不問にされた。

だが城を奪われた高橋元種は怒ったままで、伊東家との関係悪化。

さらに伊東家でも同士討ちだから戦死者50人の死も、戦功としてカウントされず家中に不満が燻った。

1600年10月11日~伊東祐兵42歳の若さで大坂で病没

紆余曲折あったものの祐兵の博打は成功し、祐兵は病の床で領地安堵の報を受け取り、思い残すことなく死んだ。

祐兵に対して領地安堵がなされたので、数日で没しているのだが「飫肥藩の初代藩主は祐兵」となっている。(ほぼ藩祖ww)

昔話や一話完結の時代劇なら「これで、めでたし、めでたし」のはずが、話が拗れるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

なぜなら稲津が軍行動を止めなかったからです~Σ(´Д`;)え~~

稲津はゲッツした宮崎城を維持するだけでなく、戦果を広げるべく島津軍との戦を始めちゃった(_´Д`)アイーン

10月18日~佐土原城(関ヶ原で戦死した島津豊久の領地)に迫り島津勢と小競り合いを始めた

佐土原城は分家の領地なので、島津本軍との本格攻勢というわけではありませんが、
ブチ切れた佐土原・島津軍が宮崎城に反撃したりと、小競り合いは都合20回にも及んだんです。

稲津が宮崎城を攻撃した10月1日は、関ヶ原を命がけで脱出した島津義弘一行が佐土原に到着した日です。

島津義弘が鹿児島についたのは10月4日・・・彼の元には稲津の動きが佐土原から入ってきており、
偶然の符号ですが、まるで自分の逃避行後を追って攻撃されているような錯覚を感じたでしょう。

島津軍が「次は東軍の本軍が来るのでは・・」と異常な緊張状態になって、国境付近を固めはじめるのです。


稲津が何故、軍行動を止めなかったのか・・・・

1・稲津の個人的野心説
2・亡き祐兵の授けた伊東家再興(島津から旧領奪還するぞ)作戦説
3・黒田如水が授けた作戦説
4・黒田如水と伊東祐兵の連携作戦説


とあり未だ定説がありません~~( ̄ω ̄A;アセアセ

さて島津家を思いっきり挑発した稲津の行動が、後の悲劇を招くのですが、それは・またの話 by^-^sio


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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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