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【島津豊久】飫肥藩初代藩主編8

1600年6月13日~伊東祐慶(いとう すけのり)は13歳の誕生日を迎えた^-^カワユイ~

折も折「関ヶ原の戦い(この段階での名目は上杉征伐)」という大戦が始まろうとしている。

これを嫡男の初陣(ういじん=戦場デヴュー)と元服(げんぷく・武家男子の成人式)にしようと思ったのも束の間、
肝心の伊東祐兵(いとう すけたけ)が病に倒れる!

これを機に「弓矢の駆け引き」を自ら我が子に教えたいという願いも、もはや叶いそうもない・・・病床で祐兵は懊悩するのだった。

出典元:日向纂記
参照元:しいまんづ雑記旧録「日向纂記と島津豊久」

城・飫肥虎口
(伊東家・飫肥城の虎口(こぐち)~シオお気に入りのアングルです(*´艸`)ルンルン)

身は大坂にあれど、領地は日向(ひゅうが・現在の宮崎県)の伊東家です。

九州では東軍の旗印を明確にしてるのは、黒田家と加藤清正だけでして、後は中立か西軍。

伊東家の隣・島津家は西軍で、しかも本軍の殆どが(大人の事情で)本国・薩摩に留まってる状態だったので、
小領主ばかりの日向の大名たちは、島津に倣っての西軍入りでした。

重篤となった祐兵は大坂城に出仕もままならず、軍議も病のためと欠席が続いた。

だが時期が時期だけに「祐兵の病は詐病で東軍に寝返ったのでは?」と疑われたのです。

祐兵を疑ったのは、同じ日向の領主同士の秋月種長・高橋元種でして、二人は秋月種実の息子たち^-^

二人は島津義弘邸の島津豊久を訪れ、祐兵の話を持ちかけた。

「ワシと伊東殿は無二の親友(朝鮮の役で親しくなった設定らしい)ゆえ、ワシが見舞いとして何としても様子を見に行き、真偽を確かめてこよう」
「万が一詐病が事実で、東軍に寝返っていたのならば、刺殺するのは容易いことだ。」
「貴殿らはワシの帰りを待っていてくれ」

ということになって、豊久が単身で伊東家大坂屋敷を訪ねた。

家紋・島津(島津家紋ロゴ)

豊久が尋ねると、祐兵の重病は紛れもない事実だった。

顔色は蝋のように白く、唇は青紫色になり、息するのも苦しげで、見る影もなくやせ衰えている。

まだ42歳だというのに、褥から豊久に向かって差し出した手は老人のように枯れていた。

島津豊久は一時でも親友を疑ったことを恥じると同時に、あまりのやつれように言葉も咄嗟に浮かばず、

「六郎三郎(祐兵の通称)殿・・・」とだけ言うと絶句してしまった。

「このような有り様です・・・横になったままの見苦しき姿をお許しあれ・・・ゲホゴホ」

「あぁ!お構いなさるな、すぐに辞しますゆえ・・どうかゆるりと養生して本復を・・・」

言ったそばから本復などという言葉に、虚しい響きが混じるのを隠しようが無かった。

「いえ・・・これだけは言わねば・・・それなるに控えてるのは、我が嫡男・左京亮(祐慶)でござる・・・どうか見知りおきくだされ・・・」
「此度が初陣にて・・・甚だ心許のうござる・・・どうか、宜しくお引き回し願いたく・・なにとぞ・・・」

そう言うと祐兵は、やせ衰えた身体を必死に起こそうとしたので、

「あ、いや、どうか!そのまま!御嫡男のことは、この豊久がシカと承った安堵下され」
「あぁ・・忝い・・・左京亮(祐慶)・・・佐土原の領主・島津又七郎(豊久の通称)殿じゃ・・・御挨拶をいたせ」
「お初にお目にかかります。祐慶でございます。父から又七郎様の武勇のほどは伺っておりました。足手まといと思いますが宜しくお願い致しますm(_ _)m」
「おお、立派な挨拶じゃ、これなら諸侯の前でも申し分ない大丈夫ですぞ^-^」

「忝い・・・思えば貴公とも不思議な縁で親しく交わったが、、いよいよ今生の別れとあいなり、、、一足先に冥途へと参ること・・・お許し・・ゴホゲホ・・」

「六郎三郎殿・・!。゜゜(´□`。)°゜。」

もはや先が無いであろう親友の心中を思い、涙の別れをした豊久は、
義弘邸で彼の帰りを待っていた秋月種長と高橋元種に向かって「伊東殿の病は真でござる。安堵めされ」と報告した。

家紋・伊東(伊東家紋ロゴ)


解りやすさ優先でシオ流アレンジしてます^^
原文に関して「もっとkwskって方は参照元を御覧下さい^-^

で、結論から言うと、この逸話どうも江戸期のアレンジ臭(もしくは創作逸話)がする。

というのも原文には、歴史上は存在しないはずの島津豊久嫡男の名前がある。
(記述者の勘違いか?)

さらに関ヶ原前だというのに豊久は「関ヶ原での討死の覚悟」を語ってる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)

文中の豊久は「かなりの御人好しちゃん、アホの子」キャラになってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でもって伊東祐兵です。

実は祐兵は「既に西軍から東軍に寝返る決意」をしてました。

祐兵が西軍のどこに不安を感じたのか記録には無いです、病人ゆえの心変わりかもしれません。

とにかく祐兵は密かに、そして急ぎ便船を用意すると嫡男・祐慶少年をサッサと本国に帰国させちゃった

この後、島津と伊東は揉めることになるので、
島津に配慮した伊東側が「豊久と祐兵仲良し逸話」を捏造言い訳にしたと思われます(*´pq`)クスッ

祐兵は祐慶少年を帰国させるときに、黒田如水と連絡を取り合い、何事か密談したようだ。

このあたりはシオ的推測になるのだが、祐兵は嫡男の帰国前に黒田家大坂屋敷に何らかの意思表示をしたはずです。

というのも如水が九州の関ヶ原のために行動を開始したのは6月からです。

自前の軍隊・如水混成軍の兵の募集を開始してて、北九州だけでなく豊後(大分県)にも広く声をかけてました。

情報収集に熱心な九州の武将なら、如水の動きが入ってきてるはずで、
祐兵が寝返りしたことに、如水の動きは無関係ではないでしょう。

伊東家御家再興のために、一時期(vs明智~九州征伐まで)は豊臣秀吉の陣中にいた祐兵ですから、
黒田如水の油断ならない知謀は、直接に見聞きしてます。

それに黒田如水は、毛利本軍が上方に行った隙を狙って、関門海峡の制海権を既に確保済。

祐慶少年の乗った船が無事に日向に辿りつくためには如水に対し、
「僕は東軍なんです。父上から、そう言われたの^-^」って一礼入れないと砲撃くらっちゃう^^;

家紋・黒田(黒田家紋ロゴ)

祐兵にすれば、まだ未熟な祐慶を勝手の解らぬ上方でウロウロさせても大した武功は上げられない。

それより如水の勢いに便乗して、日向にある西軍の城を、東軍として落とす方が、徳川家康の覚え目出度いと判断した。

もちろん初陣の祐慶には戦の指揮は出来ない。

そこで祐兵は武勇優れたお気に入りの家臣に軍の指揮権を託した。

一度は没落した伊東家を再興しただけあって、祐兵の生き残りに賭ける執念は並々ならぬものがある。

祐兵・最期・・・渾身の大博打。

歴史は彼の掛け目が正しかったことを証明しているものの、
伊東家が飫肥藩として生き残るための犠牲者が出てしまうのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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