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【不審死or病死?】飫肥藩初代藩主編7

1589年6月13日・・・伊東祐兵(いとう すけたけ)の嫡男・祐慶(すけよし)が誕生したことから伊東家の家督がややこしくなる。

伊東家嫡流で家督を継いだ伊東義賢(いとう よしかた~祐兵の甥にあたる)が厳然といたからだ。

だが天下人・豊臣秀吉が戦功を認め、領地2万8千石を与えて大名に取り立てたのは祐兵だ。

没落した伊東家が大名として復活したのを機に、旧家臣が帰参しはじめ、
(小大名だから領地に限りがあるので早く帰参した者勝ち^^;)

本来であれば主君の義賢が、家臣として祐兵に仕えるという逆転現象が起きる。

それでも祐兵に子供がいなければ、義賢を養子に・・・って流れになった可能性が高いのだが、
幸か不幸か、祐兵に待望の嫡男が産まれてしまう。

そうなったら祐兵も、苦労して手に入れた領地を、何としても我が子に譲りたい。

祐兵の現代目線から見れば「若い晩年の苦悩」が始まる。

そして1592年天正20年=文禄元年・・・朝鮮の役が始まった。

城・飫肥大手門
(現在の飫肥城・大手門~飫肥藩・伊東家の城です)

戦国オールスターズというえば北条征伐の小田原の陣も当てはまるが、やはり最大規模は朝鮮の役だろう。

北は北海道・松前氏から南は九州まで、全国通津浦々の戦国大名が名護屋城に集った。

現在では城跡しかないので忘れられがちだが、名護屋城は佐賀県にありました。



この朝鮮の役で祐兵は、島津豊久(しまづ とよひさ)と親しくなったそうだ。

島津豊久は1570年産まれで、朝鮮の役当時は23歳。祐兵より11歳年下です。

戦国感覚だと親子に近い世代差の二人が友情を育んだ。。。ということに多少違和感を覚えるが、
どうも島津豊久は年上に可愛がられるタイプだったようだ^^;

実は、島津豊久は島津家中でも「美少年長じて美青年」として鳴り響いていたんです(/▽*\)

なにせ武家の風習「衆道(しゅうどう~男同士のアレです)」華やかりし頃です。

島津家中でも「豊久サァの想い人はオイだ」なんて勘違いする猛者(複数)もいて、
彼ら「勘違い猛者たち」は豊久のために「朝鮮の役」でハイテンション・ハッスルしたそうな。
(逸話なんで帰国後揉めたかは知らない)

とにかく美青年が側にいることは、何も無くても川* ̄д ̄*川ポッ と何となく嬉しい(らしい)。

(真面目に)島津豊久は、高名な島津四兄弟の末弟・家久の嫡男として産まれる。

初陣は「沖田畷の戦い」で、妻は三歳年下~父の従兄の長女(つまり又従姉妹)です。

父・家久が死んだ時は「九州の役・島津征伐」の最中だったために、
現在でも暗殺説が飛び交うが、通説ではあくまで病死。

豊久の家督相続に関して紆余曲折あったものの、家久が死去したのが羽柴秀長軍に降伏した後だったので、
関白直裁により豊久の家督相続と父の領地である日向・佐土原城の相続を認められた。

父・亡き後の豊久は叔父にあたる義弘が後見人となり、我が子同然に可愛がったと言われているが、
オジサマキラー?の豊久は秀吉の受けも良かったらしく、小田原の陣にも秀吉に呼ばれて従軍している。

そのあとすぐに「朝鮮の役」だから夫婦生活は短かったと思われる。

ちなみに豊久の妻は夫の死後、島津家老の町田氏に再嫁し40になる前に死亡した。

関ヶ原で豊久が戦死した時には、娘(ウイキペディアでは姪だなぁ)しかいなくて、
ムコ養子をとるものの、無嗣断絶(むしだんぜつ~相続する男子がいない)として、佐土原の領地は徳川幕府に一度没収された。
(豊久の弟は東郷家へ養子入りしてて、本人も佐土原へ戻るのを遠慮して辞退)

だが後に亡き豊久の大叔父・以久(ゆきひさ~つまり島津4兄弟の叔父にあたる)が入って、薩摩支藩・佐土原藩として復活する。

家紋・島津
島津家紋

で、またまた祐兵に話が戻るが、伊東家嫡流である義賢と、その弟の祐勝が朝鮮の役の最中に急死してしまう。

1593年6月14日・・・伊東祐勝(伊東家嫡流・次男)が24歳で病死。

彼は朝鮮で病となって帰国途中暴風雨で名護屋(佐賀県)に行けず、石見に行き現地で病没。

同じく1593年7月21日に伊東家正統当主・義賢も27歳の若さで朝鮮で病死する。

嫡流の兄弟が相次いで病死したために、現在でも「伊東家の家督を狙った祐兵が暗殺したのでは?」と囁かれている。

だが「朝鮮の役」では現地で武将の病死が相次いでおり、50代の島津義弘がピンシャンしてるのに、
嫡男が20代の若さで病死したりしてるので、どうも一種のインフルエンザのようなものが蔓延してたようだ。
(免疫のある世代が生き残る)

だから本当に病死した可能性も否定しきれないが、とにかく嫡流男子が死に絶えたことで祐兵がホッとしたのは言うまでもない。

以前も触れたが、義賢・祐勝兄弟は年少のころ預けられた大友宗麟の影響で、ガチ・キリシタンだったの^^;

秀吉の伴天連追放令(実質の禁教令)が出ても、棄教せず信仰を持ち続けたので、
晩年気まぐれだった秀吉が、いつキリシタン弾圧を始めるとも知れないので、祐兵はハラハラでした。

故意か偶然か・・・二人の若者の突然の「病死」で伊東家の家督は祐兵のものとなったのである
あとは、まだ幼い我が子・祐慶に確実・無事に家督を譲るだけ・・・・

ところが時代は激しく動き「太閤秀吉の死去」「関ヶ原の戦い」がやって来る!(゚ロ゚屮)屮ぇえっ

小大名である伊東家は「祐兵の舵取り如何に?!」という状態なのに、当の祐兵が病に倒れた(_´Д`)アイーン

嫡男・祐慶は数えで13歳の若さ、複雑な政情など解らない~~~果たして伊東家は如何に関ヶ原を乗り越え生き残ったのか?

それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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