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【旧領復活(=^・ω・^=)v ブイ】飫肥藩初代藩主編5

四国は伊予に亡命した伊東祐兵(いとう すけたけ)。

彼は身を寄せた河野家に仕官するでもなく、四国一番成長株の長宗我部氏にも見向きもしない。

祐兵の目標は、あくまでも「没落した伊東家の御家再興と旧領復活」だった。



最初に亡命していたのは豊後・・・6か国守護の大友家だ。
(VIP大友宗麟が祐兵の亡き兄嫁の叔父・・・縁戚コネで頼った)

有力大名である大友家は人の出入りが多い。

各地の国人領主が「配下になる証」として人質が送られていたし、
大友家臣の子弟も行儀見習いとして大友館に伺候している。

その他に博多や堺の商人に、宗麟がキリシタンだった関係で宣教師や南蛮人もいる。

大友家で耳をダンボにしていれば、いやでも彼らが持ち込む「織田信長」のウワサが耳に入る。

九州は日向で武運つたなく島津に敗れ、家臣たちにも見限られ裏切られた。
(祐兵の父・義祐が贅沢三昧して家臣の諫言を蔑ろにしたツケが回った)

祐兵が失ったものを取り戻すには、島津より強い力を持つ中央政界の実力者。。。。

すなわち、織田信長のバックアップが必要だったのだ。

大友家が「耳川の戦い(1578年)」で島津軍に敗れ、伊東家に対する風向きが悪くなったのを好機として、
義祐・祐兵親子は祐兵祖父と従者20数名を伴い四国へ亡命した。

なかなか中央へのパイプが見つからないまま、窮乏生活していたところに伊東家所縁の山伏を通じて、

羽柴秀吉の黄母衣衆(かなり遠いけど伊東家の一族)との接触に成功し、ツテのツテを頼って祐兵は織田家に仕官した。

家紋・織田
(織田家紋ロゴ)

この時期の大きな出来事といえば上杉謙信の死去と、織田信長が石山本願寺と和睦(実質は本願寺の敗北)したことで、
織田信長は八面六臂の忙しさの中で、九州「大友VS島津」の争いに政治介入を始めていた。

これは大友宗麟が、島津からの圧迫を得意の外交で乗り切ろうとして、織田信長に「和睦の調停」を依頼したからです。

九州の大名に接点の無かった織田信長は、島津の古今和歌集の師匠である「関白・近衛前久(このえ さきひさ)」を仲介にして接触開始(1579年)

物見遊山気分の公家の仲介じゃ埒が明かないので、途中から直接交渉で島津にプッシュ。

信長からの外圧に根負けした島津が、大友家と和睦したのが1581年のことだ(豊薩同盟)。

祐兵が仕官したのは、ちょうど、この島津との交渉の数年間に該当し、九州に関心が高かった信長に「将来役立つだろう」と拾われた。

仕官といっても、織田家から知行を拝領したわけではないので、厳密には家臣とも言えない状態だ。

とにかく織田家臣で、祐兵が最初に接触した羽柴秀吉に身柄を預けられた。(一種の与力になるのだろうか)

この時期の祐兵は、さしたる働きはしていない。(だって上方風の習慣に慣れてないもん)

何となく秀吉の側でウロウロしてたのだろう∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

家紋・豊臣
(豊臣家紋ロゴ)

豊薩同盟に関して、祐兵や織田家中の者が、どの程度知っていたかは定かではない。

だが目端の利いたものなら、信長が天下統一の過程で、既に九州が視野に入っている事に気づいていただろう。

1574年の段階で秀吉は「筑前守(いまの福岡県)ちくぜんのかみ」という官位を私称し始めている。(中国・毛利攻め開始が1577年)

そしてライバルである明智光秀が「日向守(いまの宮崎県)ひゅうがのかみ」に任官したのが1575年だ。

近い将来あるであろう「織田家の九州の役・・・島津(島津としては仮想敵想定は超迷惑)征伐」

島津の薩摩に進軍するコースは「肥後(熊本県)路」と「日向路」。

その日向路での先導役が、かつて日向の覇者であった伊東家の出身である「伊東祐兵の期待された役割」なのだ。

織田家内部のライバルたちを出し抜くために、九州の情報が欲しい秀吉は、
最初に接触したのを是幸いと、祐兵を自らの側に置くことを信長に望んで、了解を得たのではないだろうか。

祐兵の「現地情報」は、伊東家主観補正がタップリ入っているが、むろん承知の上。

秀吉の近々の敵は毛利家なので、耳に入れる程度の話であれば、それで十分なのだ。

とにかく羽柴秀吉という、上昇志向の極めて強い男の側にいたことが祐兵の運命を決めた。

1582年6月2日~本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる

膨張する織田家に期待してた祐兵・・・お先真っ暗かと思いきや急転直下で事態が変化する。

羽柴秀吉が「中国大返し」を敢行!祐兵も走る!!
6月13日~山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を倒す
山崎の合戦に祐兵も出陣~働きにより「くりから竜の槍」と河内国500石を領地として拝領する

何しろ伊東家は最盛期36万石だった領地と48もあった城を全て失ったのだ。

伊東祐兵の人生リベンジの飛躍は、小さな一歩であっても「伊東家の希望」

後世、伊東祐兵は「伊東家・中興の祖」とまで呼ばれるようになる。

そしてアレヨアレヨというまに世の中は目まぐるしく代わり、秀吉が関白に就任。

1587年~九州の国人領主にとっては悪夢、祐兵にとっては待ち焦がれた、「天下人の九州の役」が始まる

織田軍から羽柴軍へ・・・人は変われど、やることは同じ。

祐兵は日向路を進軍する羽柴秀長(関白・秀吉の異父弟)軍の先導役を務めた。

伊東祐兵29歳~九州の役の働きにより旧領の清武・曾井・飫肥に2万8千石を拝領し、大名として復活する
さらに喜びは続く・・・1589年6月13日・・・嫡男・祐慶(すけよし)が誕生~

祐兵は自らの運命を切り開いた「山崎の合戦」と、奇しくも同じ日に産まれた嫡男に、並々ならぬ期待をした。

何より30を超えて設けた(当時としては遅い)嫡男が愛しかった。

大悪来れば、大善来る・・・逆もまた然り。

伊東家内部に、家督を巡る不和の種が芽生えようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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