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【伊東家の没落】~飫肥藩初代藩主編3

1568年永禄11年・・・伊東祐兵(すけたけ)は数え10歳で伊東家48支城の一つ、飫肥城の城主となる。

まだ若年だが、一城の主になったのだから彼の元服は、この頃だろう。

ちなみに伊東家で高名な48支城の成立年度は、伊東が日向・北原氏の領地を奪った(1564年)以降。

むろん支城の下地となるものはあり、ゼロからの築城ではない。

北原没落以降は、猛将・島津義弘が日向入り(木崎原の戦いの前です)しており、
伊東としても飫肥城ゲットのために、島津に対する備えを万全にしておきたかったのではないか。

そして祐兵の初陣(戦場デヴュー)は、島津軍との戦いであるのは容易に想像できる。

祐兵と島津家との所縁は、伊東家という日向の覇者の家に産まれたことに起因している。

城・飫肥大手門
飫肥城大手門

日向(ひゅうが・現宮崎県)の覇者一歩手前の伊東義祐(よしすけ)。

彼の期待の嫡男、名前は義益(よします)と言った。

温厚な人柄で領民も家臣も義祐でなく義益を慕っていた。

それもそうだろう。父・義祐は公家・仏教文化にハマって散財しているので、否応なしに次世代に期待する。

伊東家、期待の若殿・義益には側室がいた。

当時なら普通だが、義益の場合は若干・・・事情があった( ̄ω ̄A;アセアセ

側室は名は福園。48支城の一つ、内山城主・野村家当主の妹です。

彼女は大層な寵愛を受けていたのだが、若殿・義益が名門の姫君と結婚することになった。

鎌倉以来の伊東家の嫡男と、一城主の妹では所詮家格が釣り合わぬ縁。
福園は正室に遠慮して実家に帰ることとなった。

若殿・義益の正室になったのは一条家の姫君で名前は阿喜多、
大友宗麟(全盛期のキングオブ九州)の姪にあたる。

阿喜多は嫉妬深い性質だったらしく、義益の結婚前の側室・福園を殺害してしまった。
若殿・義益が、側室殺害が自分の正室の命令だと知っていたのか、知らなかったのか、
彼の反応は伝わってはいない。

大友家との外交関係を慮れば、当然何も言えなかったに違いない。

若殿・義益が仏道修行に励んだのも、無体に儚く散った側室の事も関連あるかも・・・と想像できる。

身を引いたにも関わらず、妹を殺された内山城主は伊東家を深く恨み、
このことが後の禍根になったのは言うまでもない。

伊東家が飫肥院を手に入れた時期は、ウィキペディアでも記述が別れているのだが、

飫肥城を手に入れたのは1567年、翌年1568年に祐兵を城主に配置し、飫肥院を完全に掌握したのが1569年のことだ。
得意の絶頂を迎えた伊東家だが、期待の若殿・義益が同年に病死する。

義益と正室・阿喜多の間には2男1女がいた。

と、いっても次男は、まだ阿喜多の胎内にいて、翌年に誕生する。

とにかく阿喜多と義益の忘れ形見たちは、父・義祐が引き取り手元で育てたのである。

期待の嫡男を失い、戦国大名としての覇気を失った伊東義祐は哀しみを紛らすために、ますます仏教文化にはまった。
(法会などの勤行三昧や、僧を招いての説法会などなど・・・もちろん多額の布施をする)

嫡孫に無事家督を継がせる・・・そのことに腐心した伊東義祐は、自身の三男・祐兵の妻を決めた。

なんと祐兵の妻に、祐兵の兄・義益の娘(つまり祐兵の実姪)としたのだ

ただ、祐兵が伊東家の家督を狙って自ら望んだのか、父・義祐が孫可愛さで決めたのか、その辺が微妙すぎて解らない^^;

いずれにせよ、このころ阿虎は幼女なので、実際の結婚生活スタートは「九州の役」の後になる。

現代からみればアブノーマルな血族婚だが、古い名族では決して珍しいことではない。

近い例でいうと、島津義久の最初の妻は実の叔母だし、長宗我部さんとこも叔父・姪カップル。

相良義陽も義理だけど叔母が正室。・・・・なぜか南国に多いなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ


家紋・伊東
伊東家紋

1572年元亀3年・5月4日~木崎原の戦いで島津義弘軍300と伊東軍3000が激突、伊東家は大敗北する

もともとは伊東と同盟関係だった相良家と、島津軍を挟み撃ちする予定だったのだが、
島津義弘の計略で連携に失敗したと言われている。(詳細は相良編にて)

とにかく伊東家は将領級・指揮官クラス・・・つまり各家の当主や嫡男を失い大打撃を受ける。

伊東家の打撃の大きさは「耳川の戦い」後に、武威と家運が衰えた大友家と似ている。

ただ大友家と伊東家の違いは、大友宗麟が天賦の外交能力で難局を乗り切ったのに対し、
伊東義祐は現実から目を背け、耳を塞いで「裸の王様」になったしまったことだ。

1575年~伊東義祐は家中の雰囲気を一新するために、最愛の孫・義賢(若殿・義益の嫡男)に家督を譲る

嫡孫・義賢は、わずか8歳・・・とうぜん何もできず、実権は祖父の伊東義祐が握ってる。

そうこうしてるうちに、島津の攻略の手が入り、伊東義祐に見切りを付けて寝返る城主が出始める。

だが伊東義祐が真実を知ることは無かった・・・彼の周囲にいるイエスマンたちは叱責を懼れて義祐に報告しなかったからです。

1577年~北部から長年のライバル・土持氏が、南部と北西部から島津軍が伊東領地へ侵攻を開始する

祐兵の飫肥城も島津軍に包囲されてしまい、義祐のいる佐土原城へと脱出した。

そして伊東家の縁戚である福永家までが、伊東家を見限り島津に寝返る。

福永は何度も享楽に興じる義祐を諌めたのだが、義祐が周囲を寵臣で固めて聞く耳を持たなかった、その結果の裏切りだった。

福永氏の裏切りが、伊東家に仕えてきた氏族たちに衝撃を与えた。

そして伊東家の怨霊を祓う大宮司という、重要な役目を担う家だった米良家が「義祐に遺恨あり」と裏切った。
(米良家庶流です・もっとも米良家は後日に改心して、伊東祐兵に仕えている)

さらに前述の妹を殺された野村氏(内村城主)が裏切ったため、義祐の本城・佐土原城の西の守りはガラ空きとなった。

さすがに事態は伊東義祐の知るとこところとなったが、全ては手遅れだ。

1577年12月9日・・・「伊東崩れ(家臣・配下の大量離反)」により、伊東義祐は「豊後落ち」を決意する

つまり亡き義益の未亡人・阿喜多の叔父・大友宗麟を頼って、豊後へ亡命することになった。

豊後へ向かう途上に、譜代の重臣筆頭格・落合氏が守る財部城があったのだが、そこも伊東義祐を見限り島津へ寝返ったいた。

というのも義祐の寵臣の専横のために、落合氏の息子が殺されていたからだ。

伊東義祐は没落の原因の全てが、享楽に溺れた自分にあることを自覚し自害しようとしたが、周囲が必死に説得し思いとどまらせた

こんな土壇場で、本人だけトットと死なれたら、家臣たち路頭に迷うでしょ~困ります(O ̄∀ ̄)ノ

とにかく財部に入ることが出来ないので、急遽、高千穂経由の山越え強行軍となった(_´Д`)アイーン

旧暦12月は今の1月真冬にあたる・・・当時の日本は小寒期で今の日本より寒かった(らしい)・・・

150人いた家臣・侍女たちは、あるものは猛吹雪ではぐれて遭難し、あるものは崖から落ちたりと、一向は80人にまで減ってしまったという。

8歳だった伊東マンショ坊ちゃまも、家臣に背負われて豊後落ちを経験した一人です。
(また木崎原を生き残ったマンショ父も、この時に亡くなったと言われてます)
(マンショの母は義祐の娘なので、伊東マンショは伊東義祐の孫です)

伊東祐兵19歳・・・没落する家の惨めさをイヤというほど味わったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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Re: プラグイン

ロン様~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

教えて頂いたヒントから、上手く成功することが出来ました~
ありがとうございます^-^

プラグイン

すばらしいプラグインの追加^^
お祝いの村ポチと拍手☆です(^∀^)>>
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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