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【島津・華麗なる一族】飫肥藩初代藩主編2

戦国・九州は日向(現・宮崎県)の覇者・伊東義祐(いとう よしすけ)。

日向三国志の決着は、ライバル土持を追い詰め、豊州島津(分家)から領地を奪った伊東家の一人勝ちとなった。

ところが、その得意の絶頂期1569年に、伊東義祐は期待の嫡男が病死してしまう。

既に家督を譲り、政治体制も父と息子のツートップで機能していたので、伊東家は少なからず混乱した。

嫡男の遺児を伊東義祐が引き取り、跡取りとして養育しはじめたのだが、
絶頂期に悲しみの奈落に突き落とされたので、伊東義祐は戦国大名としての英気・覇気を失ってしまった。

伊東義祐は政務に関心を失い、以前から傾倒していた仏教・公家文化にのめり込む。

彼は家臣の諫言に耳を貸さず、周囲にイエスマンしか近づけないようにしてしまう。

伊東義祐の変化は、もう一人の息子・三男・祐兵(すけたけ)など眼中にないかのようだ。

もっとも祐兵は、この時数えで12歳で、よほどの神童・名将でない限り、その器量は未だ海のものとも山のものとも判断がつかない。

周囲の家臣たちも、祐兵少年の強かで逞しく、時に大胆な本性に気づいておらず、
後年、この12歳に祐兵少年に、自分たちが家臣として額づくとは想像してもいなかった。

鎌倉以来の名門・伊東家の嫡流は、あくまでも伊東義祐の嫡男の遺児が、家督を継ぐことだったからである。

家紋・伊東
伊東家紋

一方、伊東家のライバル・薩摩の島津家でも訃報が舞い込んだ。

1571年・元亀2年6月23日~15代当主、島津貴久が58歳で死亡したのである。

ちなみに同年同月に毛利元就が75歳で没している。

貴久の死去により家督は4兄弟の長兄・義久が39歳で島津16代当主となる。

伊東義祐は当主貴久の死去により、島津は再び内訌(内輪もめ)により弱体化すると判断し(そのくせ英気ないから何も対応しない)油断した。

もっとも伊東義祐の判断は消極的判断ながら、全くの的外れではない。

長兄・義久は年齢・能力に不足は無いのだが、病弱で度々体調を崩して寝込んでは祈祷騒ぎする^^;

さらには未だ嫡男に恵まれず、2年前に産まれたのも女子(末娘・亀寿のこと)だったんです。

何度か触れたが、この当時は島津家では「当主の絶対的権威」が確立しておらず、分家と宗家の実力は拮抗していた。

貴久の先代・14代勝久がヘタレ当主だったため「テコ入れ」のため、
島津日新斎(しまづ じっしんさい・伊作島津当主)の嫡男・貴久が15代として家督を継いだのだった。

だが他の分家にしてみれば、分家から入った当主に頭を下げるのが何としても面白く無い。

それでも貴久が奮闘し何とかバランスをとり「大隅統一」を成し遂げたのだが、
その貴久が熟年期に死去し、病弱な義久が家督を継いだため、再び分家が反抗的態度になる。

家紋・島津
島津家紋

特に鼻息が荒かったのが分家・薩州家5代目・実久だ。

薩摩州家5代目は死んだ貴久も手こずらせたのだが、義久をも悩ませた。

そこで義久は自らの長女・御平(おひら)を薩州家6代目義虎に嫁がせ、薩州家を分家筆頭の待遇にすることで漸く宥めたんです。

薩州家6代目・義虎(ちなみに「義」は足利義輝から拝領)は父の5代目と違い宗家に(一応)従順で、
御平とも仲睦まじく子宝に恵まれた。

惜しむらくは薩州家6代目義虎が50歳という若さで亡くなることだが、それは未だ先の話だ。


父・貴久亡きあとに、再び不安定になった国内をまとめつつ、
念願の「三州統一(薩摩・大隅・日向)」に向けて、その牙と爪を研ぐ島津四兄弟。

一方、絶頂期だった伊東家は嫡男の死により、静かに没落の坂道に向かいつつあったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

「次回~伊東家の没落」
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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