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【日向三国志?!】飫肥藩初代藩主編1

九州は日向限定の小大名の関ヶ原~新章スタート!!(=^・ω・^=)v ブイ

さて日向の名門・伊東家を語るには父、スケキヨ・息子、スケタケは避けて通れない。

これで同時代にスケトモがいれば「犬神家の一族(横溝の金田一シリーズ)ごっこ」が出来るのだが、残念ながらいない。
(実はネタに出来ないと、マジで探した∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

おまけに父、スケキヨは、足利将軍家から「義」の文字を拝領して「義祐(よしすけ)」に改名しちゃう(* ̄* ̄*)ツマンナイノ~

冗談はさておき、現在の日向(ひゅうが=宮崎県)というと、
島津家の「三州統一」のイメージが強すぎて、
「その前は?」と聞かれると、咄嗟に出てこない人が殆どだと思う。

島津がゲットする前の日向は、
土持家(700年来の地元)・伊東家(鎌倉時代から土着)・島津(隣国からの外圧)
の三者が覇権を争うプチ三国志状態でした

でもって土持・伊東・島津は日向守護職の地位を巡って争っていた(南北朝の頃)のだが、
最終的に日向守護職の地位は島津のものとなった。

島津による日向侵攻は後年になるのだが、
日向守護職の地位を盾に「日向も島津の本貫地(先祖伝来の地」と言い張り、
島津は侵攻の大義名分にしたんです。

日向で一番古い(700年以上)のは土持氏で、宇佐八幡宮の神官から枝分かれした、いわゆる神社系氏族の一つ。
(九州には神社系氏族がワンサカいる)

室町期初期の土持は、大隅と日向の守護代であり日向の地頭職の家系です。

実は伊東家も日向の地頭職をゲット(年代は鎌倉期)してるので、
家格的に土持と伊東と、どっちが上か~というと、かなり微妙^^;ヨクワカラン

そんな伊東家は、伊豆の伊東家から兄弟が別れて日向に土着したのが始まりで、
「いわゆる鎌倉以来の名門」と呼ばれる家柄となる。

だが日向に来た早々は地縁も人脈も無いので、
地元有力国人の土持氏と婚姻して縁戚関係をテコに少しずつ勢力を伸ばすところからスタート。

でもって南北朝のカオスに台頭しはじめ、
土持とはハッキリと敵対関係になり、前述したように「日向守護職」の地位を争うまでになる。

土持宗家は縣(あがた)土持氏で、一族が6家あったのだが、
そのうちの4家までが伊東家との戦いで没落する。

没落~といっても完全に消滅したわけではなく、土持の一族は「島津家臣」として生き残るんです。

土持は伊東家との対抗上、島津家と同盟関係を結ぶようになります。

家紋・伊東
伊東家紋


島津家と伊東家の本格抗争は1397年からです。

日向の勢力分布としては、北部が土持、中央部が伊東、南部が島津です。

土持と島津が同盟関係だから、本来なら南北で中央の伊東を挟撃できたはずなのですが、
土持にとってアテが外れたのは、島津で内輪揉めが始まった(_´Д`)アイーン

当時の島津は宗家より分家の力が強く、従って兵の動員能力も分家が宗家を凌いでいたんです。

島津のピンチを救う、日新斎(じっしんさい・伊作島津当主)が登場する前のことで、島津グダグダ~~~

ヘタレ島津14代当主は、城を追い出されママンの実家(大友)に逃げる始末で、
島津は日向どころではなく、御膝元の大隅統一に手こずっちゃうんです( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・島津
島津家紋

この時が「伊東家の日向統一」のチャンスでしたが、伊東家でも内輪もめが起き始め、
領内の安定に追われてしまう。アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

1512年(永正9年)~祐清(すけきよ~後の義祐)が伊東家に誕生する。

翌年にベッキー・・・じゃなかった戸次道雪(べっき どうせつ)が産まれてます(O ̄∀ ̄)ノ

道雪の翌年に「島津四兄弟の父・島津貴久」が産まれてます(O ̄∀ ̄)ノ

大友宗麟は1530年産まれですから、当時なら親子ほどの世代差があるのです(O ̄∀ ̄)ノ

1537年(天文6年)~祐清は足利将軍家に3万疋の献金をして将軍・足利義晴から「義」の文字を拝領し、「伊東義祐・いとうよしすけ」と改名します(=^・ω・^=)v ブイ
1547年(天文16年)~今度は朝廷に献金して「従三位(じゅさんみ)」に任官する
(義祐は生涯、自慢とした)

島津が大隅統一にモタついている間に、伊東義祐は着実に日向で勢力を広げ、土持涙目。

かろうじて生き残ってた土持の庶流は、僅か二家。

宮崎土持氏は伊東家と婚姻という形をとりつつも、伊東家の家臣化なぅ
財部土持氏は伊東家に敗れて滅亡。

残った宗家の縣土持が必死で踏ん張り続けている状態だった。

伊東義祐は伊東家の最盛期と最没落期を作った人物で、
そういう意味では大友宗麟とキャラがかぶります(O ̄∀ ̄)ノ

大友宗麟はキリシタンにハマったのだが、伊東義祐は公家文化にハマり仏教に凝りだした
1551年天文20年~伊東義祐は大和より仏師を招き大仏を建立
1552年天文21年~今度は金閣寺をパクって金柏寺(きんぱくじ)を建立

奢る伊東義祐は公家文化を取り入れることに夢中になり、莫大な金品を浪費し始める。

この時も更に「銀閣寺をパクって銀柏寺」まで建立しようとしたけど、さすがに財政が続かず諦めた^^;

1558年永禄元年4月~島津貴久(15代目)が遂に大隅統一~まだ不完全ながら足元を固めることに成功です(* ̄・ ̄*)Vブイ
1559年1月15日~伊東義祐の三男・祐兵(すけたけ)が誕生~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

故郷を追われた秋月種実が毛利の支援で古処山を奪回した年で、同時に大友家も全盛期を迎えます。

1569年永禄12年~伊東義祐は5か月の攻略の後に飫肥(おび)城をゲット~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

同時に豊州島津家の領地の一部と肥沃な穀倉地帯・真幸院(伊東の縁戚・北原家の領地)もゲット。

伊東家のものとなった佐土原は「九州の小京都」と呼ばれるまで栄華を極め、伊東家絶頂期を迎える。

このころは、島津より伊東家の勢いが勝っていた^-^

画像・砂時計


伊東義祐は長男が幼くして亡くなり、次男・義益(よします)が期待の嫡男だった。

次男は性格・器量ともに申し分無しで、家中の信頼も厚く領民も「若殿様」と懐いていた。

義祐が公家趣味・仏寺建立に浪費しても家臣や領民がついていったのは、
この次男に家督を譲り伊東家は義祐と次男の二頭体制にしてたからです。

「義祐の公家趣味は困るけどぉ~戦には今のトコ勝ってるしぃ~跡継ぎが安泰だからOK~~」
と、それなりにバランスがとれてたのです(* ̄・ ̄*)b

ところが絶頂期の1569年に期待の次男が病死してしまう ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

祠に籠って仏道修行してたんだけど無理しすぎたらしいショボーン..._φ(・ω・` )

あ、いや三男の祐兵は数えで11歳ですから、兄を毒殺とか無いです( ̄ω ̄A;アセアセ

伊東義祐の落胆は激しく「全てヤル気を無くしてしまう

家臣も「浪費・義祐の後の若殿に超・期待してたからil||li _| ̄|○ il||l」

領民も「颯爽とした若殿に信頼を寄せていたからil||li _| ̄|○ il||l」

城下の民は嘆きのあまり進んで剃髪(丸坊主)し、喪に服したほどだ。

次男は幼い男子を残しており、伊東義祐が手元に引き取り育てた。

孫の中に、亡き次男の面影を見ては(@@)ウルウル~~

で、最初は単なる自分の力誇示のためだった公家雅趣味が、哀しみを忘れるためにガチでのめりこむようになる。

家臣の諫言にも耳を傾けようとせず、周囲をイエスマンで固め始めるという、ヤバい状態になってきた。

そんな家中の空気の中で多感な少年~青年期を迎えた3男・祐兵。

彼の胸中に「伊東家の家督」に対する野心が膨らみ始めるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回~島津・華麗なる一族
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Re: 48城

了解しました~
当方の認識不足でした。
この記事内では、おっしゃる内容を盛り込むのは厳しいので、
本文を修正して対応します。
御教授ありがとうございます^-^

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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