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【1577年】2次史料より

1577年の『北肥戦誌』では、伊万里氏は簡単に恭順した様になっていますが、どうやらそうではないようです。

天正4年(1576)の事、伊万里治(又は家治)、吉志見城主・波多鎮(しずむ or しげし)、有田唐船城主・有田盛(さこう or さかる)の三名は、以前に龍造寺家に誼を通じていたものの有馬に唆され反旗を翻し、龍造寺方・鶴田前(すすむ)の守る獅子ヶ城を攻撃、6.28に鶴田を討ち死にさせたようです。


この造反に隆信の弟・長信が多久から出撃、伊万里治は多久原(二次史料では多久原ではなく、莇原・小侍(共に北多久)あたりではないかとしている)で臣下の福井山城守にこれを迎撃させるも打ち負けています。

続いて長信が吉志見城を囲むと、波多鎮は先非を悔いて再び帰順、有田盛はこの月に死去、その嫡子はまだ幼少であったため、
盛の後室が家臣・池田武蔵守を遣わし和を乞うたので、隆信は弟・信周の次男を自らの養子とし、
松浦太郎と称させて有田家の養嗣子とした(太郎は後に、朝鮮出兵で兄の家利が病没した為、実家に戻り家督を継いでいる)。

隆信は同年9月に二度目の伊万里攻めに臨んだものの、大村家が助勢した為に落ちなかったため、天正5年の6月に信昌が一計を案じて城を攻め伊万里治は下城、後藤貴明に講和を依頼し、信昌の兄・信房の三男・茂成を治の娘に娶せ養子としたようです。

これに連なり、山代城主・山代清も隆信へ和を乞うた。・・・つまり、伊万里攻めは三度行われていたことになる模様。

『北肥戦誌』と結果こそ同じですが、プロセスが端折られてますね。

また、北肥戦誌には天正3年に西島城の横岳鎮貞が敗北した事になってますが、二次史料では天正6年3月23日としていました。
どうやら『横岳文書』という史料に、天正5年12月28日付けの島原城主・島原鎮豊から横岳鎮貞宛の書状が残っているようで、
「隆信が来春、当郡に至り渡海すると聞いている。事実ならば一戦に及ぶ覚悟である」と申し送っており、

また、有馬鎮貞からも横岳家へ文書が送られており、
「隆信が旧冬に攻めて来たが、然したる事もなかったとし、一戦を遂げて尽くを討ち果たすのは訳もない事であるから、我らに呼応して佐嘉表に至って放火するよう」求めています。

北肥戦誌では、鎮貞は城を退去後、財部村にあったとありますから、そのときに書簡を遣り取りしていたのか、との考え方もできますが。




今夜はヒストリー見てたんだが、九州がほとんど出ないんで飽きて・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

冒頭の島津貴久の「九州、次は天下を狙う」・・・にブッ飛んだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

まだ三州統一どころか、肝属とも伊東ともケリついてないんですけど~

まぁ番組的リップサービスですな( ゚Д゚)y─┛~~

でも義久じゃなくて、貴久ってとこが渋いチョイスだなぁ~

時々出るVIP記者会見が笑える~あれくらいやってくれれば、いっそ清々しい~

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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