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肥前千葉氏_2【南と北で生き残れ!!】


肥前千葉氏は途中から下総・千田千葉氏と肥前千葉氏に分かれます

下総・千田庄は肥前千葉氏の本貫地

千田庄を受け継ぐものこそが、肥前千葉の総領家なのです


南北朝の動乱期に、肥前小城と下総千田の両方を一人の当主が維持するのは困難でした。

さらに肥前3代目、4代目は2代目胤貞の嫡男、次男でしたが、みな若くして亡くなります。
(記録が少ないので詳しいことは解らなかったです)

そして肥前2代目胤貞の悲願は、下総千葉(胤貞からみて従兄弟)に奪われた宗家の地位奪還でした。

そこで胤貞は、自分の三男に総領の証である千田庄を継がせ、実弟で養子の胤泰を5代目として肥前小城の領地を継がせたのです

胤貞三男は千田千葉氏初代となり、父・胤貞の悲願を受け継ぎます





南北朝の争いは、そのまま千葉宗家の座を巡る争いとなり、それは忽ち下総一円に広がりカオスとなりました。

・・・どうも、その、なんだ下総千葉家は世渡り上手だったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

戦では千田千葉に降伏したのだが、ちゃっかり北朝へ寝返り、下総千葉は室町幕府から安堵を受けて宗家の座をゲッツしちゃうんです。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

千田千葉氏は戦に勝って政治で負けた・・・il||li _| ̄|○ il||l

お約束通り千田千葉氏は衰退し、戦国期には完全に下総千葉の下風に立たされます。

風向きが変わるのは秀吉の北条征伐です。

下総千葉は北条が敗れると共に領地没収で浪人となり、一族は散り散りバラバラになる。

一方の千田千葉は徳川家康の関東入府で召し出された(名家大好きっ子・家康)

旗本直参・・・とは行かなかったが、千田千葉は徳川家臣成瀬家に仕え、犬山藩(藩主が成瀬氏)が立藩されると家老となり幕末・明治へと続く。


肥前千葉家紋

一方、宗家の座を巡る争いの柵から解放された肥前千葉氏は、独自の勢力として成長していく。

後年ですが肥前千葉は対馬・宗氏を通じて朝鮮国とも貿易し、城下は国府と呼ばれるほど繁栄します。


さて、5代目となった胤泰は初代・宗胤の子だが、父が亡くなった時には2歳(別説あり)だったと言われている。

そのため兄で2代目の胤貞に養育されたんです。

九州における南北朝の争いでは、はじめは南朝が優勢だったので、胤泰は南朝方でした。

が、途中で北朝へクラスチェンジします。

理由は北朝が鎮西鎮圧のために「稀代の名将」と謳われた今川了俊を九州探題に任じたからです。

今川了俊は期待と違わず南朝を駆逐し、北朝を勝利へと導きます。

了俊は肥前千葉家との関係を強くするために 自分の弟・仲秋と胤泰の娘を結婚 させました^^

今川仲秋と胤泰娘との間に生まれたのが、今川国秋・・・肥前今川家(江戸期:持永家)です


優秀すぎた了俊は、室町幕府の不興を買い九州探題職を解任。

了俊とともに、弟の仲秋も駿河へと帰っちゃいます^^;

仲秋の妻だった胤泰娘が駿河へ同行したかは不明ですが、息子が肥前に残ってるところみると胤泰娘も肥前に残ったんじゃないでしょうか。

叔父さんとお父さんが駿河に帰っちゃった肥前今川家にとって、縁者は肥前千葉家だけです。

仲睦まじく協力関係にあった肥前今川氏と肥前千葉氏。

それが西国大名のドン・大内家の陰謀により両家は敵同士となるのですが、それは・またの話 by^-^sio

※南北朝~戦国初期の肥前千葉家系図を作るので、次回まで少し間あきます~

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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