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北肥戦誌【1577年】

6月、隆信は平戸の松浦鎮信ら下松浦郡の敵対勢力征伐へ出馬する。

龍造寺勢が伊万里に着陣すると、当地の地主・伊万里 治が真先に和を乞うてきた。

続いて松浦鎮信も和を乞い、大曲対馬守を差遣し起請文を差し出す。この為、隆信は平戸まで行く必要がなくなった。

更に山代城主・山代虎王丸が降伏、有田唐船城主にして松浦48党の総領・松浦 盛も家臣・池田武蔵守を派して和を求め、大木の庄山 高も軍門に降って、下松浦はあっさりと龍造寺家に帰した。

隆信は弟・龍造寺信周を有田に置くと、自らは彼杵郡へ討ち入り大村純忠を攻めんと決する。

後藤貴明と松浦鎮信にも兵を出すよう申し送り、伊万里らを催して彼杵郡へ向かった。

先陣は鍋島信生・勝屋勝一軒、二陣は納富家貞・小河信貫、三陣は執行種兼・神代家利、四陣は鍋島信房・龍造寺長信、その他に小城の千葉衆が続き、後陣は隆信の旗本衆であった。

また、平戸勢は軍船を催し大村へ着岸、後藤勢は郡村へ押し出す。

龍造寺の大軍来襲を聞き、大村勢は河内(或いは貝瀬)の要害に数千の兵で籠った。

龍造寺勢は河内に着陣すると、6月20日にまずは城周辺の青田を刈り取る。

城兵はこれを追い払うべく出陣、寄せ手はまんまと敵を誘き出し、一斉に此れを追い立てて城戸口へ押し寄せる。

城兵は城へ入れまいとこれを支える。

鍋島勢の江副兵部左衛門が一番に城へ掛かるも、城兵に鉄砲で撃たれて倒れる。

更に原口平次兵衛も城戸を越えんとし撃たれた。

これに勝屋勢が頻りに攻め立てるも、打ち負けて退く。

鍋島信生は敗退する様を静観していたが、隆信より派せられた《田原伊勢守》より急ぎ勝屋を援けるべしとの下知に、ようやく采配を掲げて共に攻め立てる。

信生は人数を分けて、屈強の者は搦め手へと差し向けた。

城兵は城戸に集中する余り油断しており、搦め手は無勢であった。

副島式部少輔は易々と城へ侵入し敵の首級を取ると、成松信勝・於保賢守も続く。

激戦が続き、双方に討ち死にが数多生じたが、小河但馬守の子・小河源右衛門が城の堀を泳ぎ越して塀を乗り越え、侵入した城内へ火を掛けた。

また、成富信種の次男・成富信安(後に茂安)も走り回って、城の巽の方へ火を付けた。

城兵はもはや支えきれず、悉く城から落ちて行った。

大村純忠は実家である高来の有馬勢からの援軍を頼んでいたのであるが、有馬・藤津の通路を龍造寺勢に塞がれており、止む無く長島の渋江公師へ書状を送って招き寄せ、話合いを持った上で公師を松浦勢の陣へ差遣、隆信との仲裁を頼んだ。

松浦鎮信は、隆信を平戸へ帰して和議を整え、6月26日に起請文を送り、大村(?)家秀を人質に出した。

隆信はこれを応諾、更に純忠の息女を隆信の次男・江上家種の室にするとの約定を交わした。

和睦した隆信は6月下旬、諫早・高城の城主・西郷純堯を攻めるべく諫早へ打ち入る。

先陣は龍造寺康房・小河信貫、二陣は鍋島信生・納富家景、三陣は倉町信俊・龍造寺信時・高木盛房、四陣は内田信堅・横岳家実・馬場鑑周、後陣は旗本衆という陣容で、
他に大村純忠名代・大村左近大夫、松浦栄の名代・松浦蔵人をはじめ、波多・鶴田・草野勢に、西郷純堯の実弟・深堀純賢も来陣し、まずは手始めに宇木城を攻める。

城は防戦し難く、すぐさま城主・西郷玄蕃允は降伏した。

これに西郷純堯は高来の有馬勢に加勢を頼まんとするが、深堀純賢が間に入り和平を勧めた為、純堯は降伏、隆信と対面し、純堯の子・西郷純尚(後に信尚)を隆信の婿とする約定を交わすと、自らは隠居し小野城へ入った。

そして10月14日、西郷一門26人の連署による起請文が提出される。

これに龍造寺側からも起請文が出され、秀島家周を人質として翌年まで諫早へ置いた。

隆信は更に11月、有馬領七浦へ打ち入る。

七浦の土豪・小野兵右衛門を始め、56人が味方に参陣し案内役を務める。

このとき、藤津の嬉野・徳島・上瀧・吉田・永田らが先手となって敵を追い払い、七浦は悉く龍造寺に降った。

次に攻めるは、有馬以下高来の者共であると、12月に島へと渡海する。その数は20,000余騎に及んだ。

まず神代(「くましろ」ではなく「こうじろ」)へ着船、この領主・神代貴茂が隆信に従い様々奔走する。

また島原純豊も隆信の陣に馳せ判じた。

佐嘉勢が大挙して襲来すると聞き、有馬鎮貴(前名:義純)は、急ぎ安富・安徳ら味方を催すと、多比良・三戸の湊へこれを迎えて戦う。

龍造寺勢の先手は打ち負け崩れかかるも、大塚勝右衛門の手の者30余人が必死に踏み止まると、味方はこれに力を得て、取って返して戦うと有馬勢を退けた。

隆信はそのままの勢いで、千々石城主にして有馬晴純の末子である千々石直員を攻めるが、これに有馬の加勢が加わっており、先陣は疎か旗本まで討ち負けそうになる。

このとき隆信の陣には佐嘉光照寺の住持・空圓が見舞っていたのであるが、味方の崩壊を見て、長袖を結んで肩に投げ掛け、長刀を取って、「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と敵へ切り掛かると、敵を四方八方に追い散らして討ち死にした。

この空圓であるが、近年肥前へ至り、興賀の蜜蔵寺へ仮初めに宿していた処を村中城へ招かれ、隆信夫妻がその法談を聞いてから深く帰依し、
頻りに城下へ留め置いて、隆信が内室の亡き母・光照尼菩提の為に蜜蔵寺を修造して光照寺と改めると、空圓をその住職に置いた。

空圓は生国と俗姓を話さなかったが、此度討ち死にする寸前に初めて名乗った。

隆信は此れを聞いて非常に嘆いた。

隔して隆信は、「今年も終わりが近づいておれば、まずは帰陣致そう」と佐嘉へと兵船を帰した。




松永弾正の弟が肥前に流れてたとは、戦国忌憚だなぁ~

二次資料が結構長いので、コメ欄は次回に開きます。
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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