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秋月種実6【大寧寺の変・前篇】

1551年9月1日「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢(すえ はるかた)に討たれる。
「大寧寺の変」は中国地方における「本能寺の変」に相当する大事件です。

陶は傀儡当主に大内義長(大友義鎮の異母弟で亡き大内義隆の養子)を推戴した。
大友義鎮は、陶からの申し出を二つ返事で了承し、異母弟を山口へ送り出した

大友の狙いは大内が握っていた日明貿易。

異母弟を通じて貿易に参入しようとしたのだが、肝心の明国が傀儡当主を大内の後継者と認めなかったので、日明貿易そのものが途絶える。


さて、石見に益田藤兼(ました ふじかね)と云う国人領主がいた。
益田は陶家の縁戚だった関係で陶晴賢と親しく、「大寧寺の変」の後は陶の右腕となった。
大内の傀儡当主に大友義鎮の異母弟を~と云うのは益田のアイデアだったらしい。

その益田のライバルだったのが吉見正頼(よしみ まさより/1513~1588年/吉見家11代目当主)だ。
吉見は5男で出家し僧となっていたが、父と兄が相次いで亡くなると、家臣から請われ還俗して家督を継いだ。

大内義隆の生前から吉見と益田は領地問題で揉めていたのだが、陶の側近となった益田は露骨に吉見の領地を狙いはじめた。
元より清廉な気性の吉見には、謀叛を起こした陶の傀儡当主など到底、受け入れ難い。

1552年5月・吉見は毛利元就に打倒・陶(と益田)のため助力を要請した。
が、稀代の陰謀家であると同時に超慎重な毛利元就は態度を明確にしなかった。
その間にも吉見の領地を狙う益田軍との小競合いが続き、吉見~我慢の限界突破!

1553年10月・吉見は大内(=陶)からの独立を宣言!陶と抗戦状態に突入する。
ちなみに1553年1月22日に元就の孫・毛利輝元が産まれてます~(*´艸`)

陶晴賢は吉見正頼を討つために、傀儡当主・大内義長を総大将に兵13000で出陣。
益田軍も兵2000で、これに合流する。迎え撃つ吉見軍は1200!

1554年3月2日・10倍近い大軍が吉見の本城・津和野城(当時の名称は三本松城)を包囲した。
吉見の方はというと、最初から籠城するつもりで城下の町民2000人を城内へ避難させていました。

同年4月17日・陶軍が津和野城を総攻撃したが、津和野城は堅城で持ちこたえる。
吉見のライバル益田は、津和野城の支城を次々と攻略し、津和野城を孤城にしようとした。

この間も毛利元就は様子見状態~~~|壁|_ ̄)じぃー

夏ごろ、慎重な元就の反対を押し切り、嫡男の隆元が援軍を出す。
兵力は焼け石に水の40名(少っ!)だが、この場合は兵数ではなく援軍そのものが政治的意味を持つ。

毛利元就が陶晴賢の奉じた傀儡当主を否定したという事になるからだ。

家紋・毛利 毛利家紋ロゴ

津和野城を包囲して約半年、陶は毛利元就に対する備えも必要になった、このままじゃ埒が明かない~

8月23日・頃合を見計った吉見が嫡男を人質に出す事を条件に降伏する。
9月、後始末は陶にお任せコースで傀儡当主・大内義長が山口へ帰った。

どっかの政党のように、もともと考えがバラバラだった者たちの集まりです。
大内内部で仲間割れが起きて、毛利元就に内通する者が出る。

1555年10月16日・「厳島の戦い」で、ついに毛利元就が陶晴賢を破る。
陶はアッサリ自害、自分が持ち上げた当主・大内義長は置いてけぼりだヽ(。_゜)ノ へっ?

1556年、吉見は陶の死で弛んだスキをついて、人質に出していた嫡男(14歳)を取り戻す(=^・ω・^=)v ブイ
1557年3月、毛利元就と連携した吉見軍は、大内家の首都山口を制圧(=^・ω・^=)v ブイ

吉見は押収した大内家の重宝・家宝を毛利元就に献上し、正式に家臣となった。
同年4月3日、大内義長は自害し、西国のドン・大内家は滅亡した。

大友義鎮は異母弟の助命より茶器を欲しがった~などと非難されている。
だが実は陶の死後から山口制圧までの間、大内義長は逃げようと思えば出来たらしい。

それが武門の意地なのか、義長は異母兄である大友義鎮のいる豊後(大分県)に逃げようとはしなかった。
また、毛利元就と大友義鎮の間で相互不可侵の裏取引が出来ていたとも言われている。

人物・大友宗麟 大友義鎮=宗麟

山口を制圧する一方、同時進行で陶の側近だった益田藤兼が、吉川元春(元就の次男)と宍戸隆家(元就の娘ムコ)のフルボッコ猛攻撃を受け降伏した。

陶の側近&功労者である吉見のライバルという事があって、毛利元就は益田の助命を渋った。
だが益田の才能を惜しんだ吉川元春の強い要望により、助命と本領安堵が認められる。
寛大な処置に感謝した益田は以降、毛利家(と吉川家)の忠実な家臣となり、吉見との領地問題でも和解する。


豊臣秀吉が織田信長を殺した明智光秀を討って天下統一の階段を登ったように、
毛利元就も大内義隆を殺した陶晴賢を討つことによって旧大内領を引き継いだのだ。

ベテラン陰謀家・毛利元就
28歳の若さの大友義鎮

二人は旧大内領であった北九州の覇権を巡るライバルとなって激しくぶつかりうのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

はい^^
戦国時代は吉見の城でした。

大内義長・・・器量がイマイチ不明です。
当時の大内家では、個人が何か出来る状況じゃなかったかもです^^;

No title

津和野は、何度か訪れてますが、吉見氏の城だったんですね。

それにしても、大内義長は無能でしたね。村ポチ。
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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