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秋月種実4【人妻は謀反の香り?】

隆信編を再開するにあたり、ブランクが空いたので、まず復習(大友関連)と予習(大寧寺の変)の秋月編タイムです。^^b




弟派の家臣を粛清し、家督を狙う叔父(肥後・菊池義武)を退けた大友義鎮(おおとも よししげ)だが、それで豊後国内が安泰になったわけでは無かった。

1553年(天文22)閏1月23日・謀叛の罪で家臣の屋敷に兵士が差し向けられ殺される。
殺されたのは一万田鑑相(いちまんた あきすけ)宗像鑑久(むなかた あきひさ)服部右京亮(はっとりうきょうのすけ)の3名だ。
1553年はキリシタンの布教が正式に認可され、同年6月には宣教師の住院が完成している。

処断された3人は布教に反発、服部が義鎮暗殺を目論み、それが発覚。
首謀者として一万田と宗像の兄弟と服部が処断されたのだが、この話には尾ひれが付いた。

義鎮が服部の美貌の妻に目を付け、彼女を側室にするために服部らを殺した。

と言う話だ。
だが管理人は、この話には疑問を感じる。


人物・大友宗麟 大友義鎮=後の宗麟

以前も話した正妻の奈多夫人の出産ペースを考えると、この時期は奥方一筋のように感じる。
それに逸話通りに女遊びを遣りたい放題なら、庶子の数が1女だけ、というのは少なすぎる。
(正妻の奈多夫人は義鎮の子供、8人のうち7人を出産)

それにお家騒動「二階崩れの変」で、義鎮が家督を継いでから足掛け3年目でしかない。
家臣の妻を奪うような愚かな男を、前当主を殺してまで奉じるとは考えにくい。
義鎮はキリシタン大名としての行動に対して、生前も死後も、非難悪口を言われ続けてきた。
大名として生き残る事の出来なかった大友家は、江戸時代にキリシタンが禁教となった事もあり、反論するチャンスが無いままに、後世さらに面白ろ可笑しく脚色されたと思います。


さて君主が 家督を相続⇒反対派の粛清 と、ここまで来ました。

では次に必要なことは何だと思いますか?

君主が次に為すべき事は、家臣団の統御で自分が主権者であるとアピールする事です
処断された一万田鑑相は、義鎮の家督相続の時は加判衆(かばんしゅう)でした。

加判衆とは大友家・家臣団のトップで5・6人のメンバーから構成されており、江戸時代で云うと老中のような地位にあたります。

江戸時代でも政権交代が起きると、それまでの老中が失脚し、メンバーの入れ替えがありました。
大友家内部でも同じことが起きたと思います。
一万田鑑相は大友内部での権力争いの破れ失脚したんです。

失脚した一万田が起死回生を狙って義鎮の命を狙ったのか?
はたまた義鎮自身が、自分の統治に彼が邪魔で排除したのか真相は謎です。

この討伐に対し、家臣の一部から反対が出ましたが義鎮は自分の意思を押し通しました。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

1554年(天文23)5月~大友に謀叛を起こし、相良家に亡命していた菊池義武(きくちよしたけ)が殺されます。
これで肥後(熊本県)の名門・菊池家の家名が絶えました(-人-)☆彡モッタイナイ・・・

ただ菊池家の血筋自体は残ってて、名前を米良氏と変えて存続します。
そして、まだ先の話だけど菊池家の生き残り、米良氏が主役の秋月家に関わりが出てくるのです。
意外なところで色んな人が繋がって行くのが歴史の楽しさです^^


さて、ヤル時は徹底している大友義鎮。
敵から見れば恐ろしいが、主君または味方であれば頼もしい人物だったと思います。
英邁だった義鎮が変化していくのは、キリシタンへの信仰が深まって行くからです。

現代であれば、高潔・立派だなぁ~と感じる慈悲や慈愛の行動。
時が戦国時代となれば「うちの殿様が変なんですけど~~~~!?Σ(´Д`;)」と理解不能。

家臣にすればキリシタンの教義基準で物事を決定されるのは、迷惑至極でしかない。
そのため雷神と武勇を讃えられた戸次道雪が、たびたび主君である義鎮に諫言するのだが、それは・またの話 by^-^sio


次回「事件?!」
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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