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龍造寺家兼_8【少弐氏・・滅びのエチュード・後篇】

1497年1月、大内義興は室町幕府から「少弐追討令」を受けて山口を出陣。

義興は、陶、熊谷、吉見、小早川などの豪華コンプ武将、2万余騎を自ら率いて筑前入りした。

少弐氏は一門の筑紫家、東家が寝返り(降伏とあるが、戦後の処遇を見ると実質寝返りだろう)、
配下の国人たちも大内軍に靡く。

そんなこんなで大内軍は5万にまで膨れ上がる。

少弐は大軍に為すすべもなく、大内に本拠地・大宰府を制圧され、一族の者も討たれ城も次々落ちた。

少弐政資と息子たちは、政資の実弟・千葉胤資のいる晴気城へと落ち延びる(筑前から肥前へって事)

だが春頃には、大内軍が肥前への侵攻開始。

「晴気城では支えきることが無理!」と判断した千葉胤資によって、少弐親子は夜陰に紛れ二手に分かれて脱出したのだった。

家紋・少弐 少弐家紋

同年4月19日
千葉胤資・・・城から討って出て戦死、西千葉氏の晴気城が落城
少弐頼高(政資の子)・・・東千葉の興常勢に討たれる
当主・少弐政資・・・逃亡先の多久宗時(側室パパン)が変心~自害を勧められて切腹、享年57歳
同21日
少弐高経(嫡男)・・市ノ川で敵に追いつかれ山中で自害、享年36歳

勝敗は大内義興の圧倒的勝利に終わった

千葉興常⇒肥前守護代に任ぜられる(正式じゃなかったかもです)
寝返り組~東尚盛⇒佐賀郡の一部を与えられる
寝返り組~筑紫満門⇒三根群と神崎郡を与えられる
陶弾正忠⇒博多に駐留させる


大内義興は戦後処理を終えると意気揚々と山口へ帰国。

さらに少弐氏累代の官職である「太宰少弐」の地位までゲッツする。

ここまで来ると大内の全盛期は義興の代なんじゃね?と思いたくなってくる。

が、そう話は上手く運ばなかった。

なぜなら、ここまでやられたにも関わらず、少弐が完全滅亡までには至らなかったからです

当主・嫡男・他男子・一族多数と死亡した少弐氏でしたが、
自害した政資には、もう一人・男子がいた~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

生き残った男子は、少弐資元。(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ

でも未だ数え8歳 il||li _| ̄|○ il||l

少弐一門の横岳氏が匿い保護しました。( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・大内 大内家紋

西千葉氏と少弐氏が実質=イコールだ、、、という事は、この竜造寺「起」の巻で何度か言いました。

直系男子が絶えた西千葉氏は、初めは少弐政資の実弟を婿養子に迎えたのですが、その婿養子は前述したように大内に敗れて戦死。

その後の西千葉の家督は、少弐一門・横岳氏から迎えた養子が継いでいるんです。

「腐っても鯛」とは、よく言われる言葉ですが、「肥前国主様」とまで仰がれた肥前千葉嫡流家の威光は、
肥前国人たちに未だ影響力がありました。

てか竜造寺家が少弐被官になった、そもそものキッカケが肥前千葉氏の被官だったからです。

西千葉の女総領・尼日光(11代目娘で12代目未亡人)は、肥前国人(竜造寺含む)たちに加勢を依頼しています。

彼女は養子の実家である横岳氏と連携を組み、少弐氏を盛り立てる事によって、家運を盛り返そうとしたのです。

肥前千葉家の象徴たる牛頭城は、大内義興の支援を受けた千葉興常(尼日光従兄弟)により、
1491年に奪われたままです。

肥前千葉の嫡流はウチよ(西千葉)!
何としても本領の小城郡を取り戻すのよ~~ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!


家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋

1498年・・・大内氏滅亡のキーマンとなる相良武任が産まれた年に、西千葉のリベンジが始まった。

少弐から寝返った一門の東尚盛・・・調べたが、彼の一族の事はシオペディアでは解らなかったです^^;

とにかく彼は、大内の命令で豊後に出兵してた。

大内と大友がガチンコになったんです~
( ̄ko ̄)<明応の政変で対立したりとか、大友の家督に大内が口出ししたとか色々積もったでつ

が、前年に少弐を倒したばかりで北九州統治が不安定だったのか、大内は大友に敗れちゃった^^;

この辺り、大内義興が全盛期の土台で終わった感が・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

その隙を突いて、千葉胤繁が挙兵し、一時は本領の小城郡に復活。

大内義興~~筑紫満門と東尚盛を鎮圧に向かわせる
千葉興常~~相手が西千葉なら黙ってられない、筑紫と東に加勢する


2月24日「川副の戦い」で激突

家紋・竜造寺 竜造寺家紋

この戦いで肥前国人たちが西千葉に加勢している。

いちいち上げるのもアレなんで割愛するが、とにかく竜造寺家当主・胤家も西千葉に加勢した。

この加勢に胤家の弟・家和は猛反対した。

たとえ局地戦に勝ったところで、いまさら少弐と西千葉の劣勢は覆らない。

先の少弐のように、四方八方囲まれて降伏する羽目になるのが落ちだ。

だが、胤家は弟の制止を振り切り出陣。

でもって戦は西千葉が敗れた・・・il||li _| ̄|○ il||l

もはや肥前に留まる事は出来ない。

千葉胤繁と胤治(どっちも横岳からの養子)・・・そして竜造寺胤家も共に筑前山中に隠れ棲んだ。

この少弐+西千葉VS大内+東千葉の争いが、竜造寺家督にも影響を及ぼすのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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