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【北肥戦誌・1583年】

1月13日、島津勢300余、乗船を以って筑後へ渡り鷹尾に着船、田尻鑑種勢に兵糧を運び入れるなどの助勢を行った。

田尻は昨年の冬、最初は大友家へ加勢を頼んでいたのだが、只今の当主・大友義統は準備に滞り、中々加勢を出さなかった。

その為、島津家へも加勢を頼んでいたのである。

島津の合力を聞いた隆信は、又も柳川へ出陣する。

隆信は田尻征伐の最中、蒲池鎮並の舅であった赤星統家が、鎮並謀殺後に恨みを含んでいると風聞があり、疑念を抱いた。

隆信は赤星へ使いを出し、柳川へ来るよう伝えさせる。

赤星には異心がなく、畏まり申すと返答するが、何故か滞り二~三日延引した。
(鎮並謀殺に憤った、ともされる)

隆信の疑念は更に深まり、成松信勝・木下昌直を急使とし赤星を呼ばんとしたが、赤星は丁度近隣の山へ猪狩りに出ており逢う事が叶わなかった。

妻が両人と対面し、帰宅次第柳川へ向かわせると伝え、両人も柳川へ帰ってそう伝えたが、
隆信は激昂し、その妻女を連れて来いと両人に命じる。

両人は戸惑いながらも再び赤星の元へ急いだ。

まだ赤星は戻って居らず、両人は妻へ配慮し、代わりに8歳になる娘を連れて柳川へと帰った。

しかし隆信の怒りは治まらず、先に人質としていた今年14歳の太郎とその娘を、
筑後と肥後の境にある竹ノ原へと引っ立て磔としてしまった。

これを見る者は皆、涙を流さずにはいられなかった。

赤星夫妻の嘆きは量り知れず、島津家に対し事の次第を述べて、恨みを晴らさせて欲しいと懇願した。

島津側も同情の涙を流し、その願いを聞き届けるとした。

また、高良山の大祝部鏡山安実も龍造寺に背くと聞こえ、隆信はこの人質である妻女も磔とした。
(場所は、高良山の麓と岩井川の辺り or 佐嘉の水ヶ江)

こういった事が続いた為、隆信を疎む者が多くなっていった。

その頃、柳川近くの蒲船津城に蒲池益種と云う者があった。

本姓は黒木で、黒木鎮連の弟であるが、ある経緯があって今は蒲池を名乗っていた。

これも元々蒲池鎮並・田尻鑑種の親類であった為、同じく城へ籠った。

これに鍋島信生勢700余騎が攻め掛かる。

城兵は奮戦し防いだが力及ばず、益種は討ち取られて落城に至った。

その後には百武賢兼が番に入り城を守った。


有馬鎮貴(前名:義純)は、龍造寺家が田尻やその他が背き、柳川へ留まっているのを見計らい、
再び龍造寺家に背くと、(3月23日に)島津家へ同心すべく使者を送ると共に、
(島津側史料に依ると、有馬は「手火矢(火縄銃)衆百挺程御合力頼存之由也」と、鉄砲隊の派遣を要請している。)
龍造寺家との手切れの証しと、布津村・深江村を放火、安富純泰が城主を務める高来島深江城の際まで攻め寄せた。

このとき純泰は横島へ赴き、父の安富純治は、島原純豊の島原城の入り番と、共に留守となっていたが、
純泰の妻が、領地にある3つの村々の男女・牛馬の悉くを城へ入れ、
妻と留守居の城兵、並びに百姓らが防戦に努めた為、城は持ち堪えた。

このとき、純泰の年老いた祖父・安富貞直(入道正佐)が有馬勢に心を寄せ、これに通じようと謀るが、
純泰の妻はこれを押し籠め、妻の下知に依り城は防戦に徹した。

これを横島で聞いた純泰は、4月11日に深江に馳せ帰って有馬勢から城を守る。

だが4月28日、深江一党で純泰の伯父である安徳純俊が気持ちを変じて有馬に通じ、
居城・安徳城へ島津勢を招き入れた上で、佐嘉へと通じる道を塞いだのである。

島津勢は伊集院元巣・新納忠元・新納忠堯・樺山播磨守・福崎新兵衛・川上忠堅並びに蓑田平右馬助ら7,000余騎で高来へ押し渡り、安徳城へ入った。

有馬勢・島津勢・深江勢は火矢を射掛け、鉄砲を放って城を攻めたが落とせずに退いた。

注進を受けた隆信は、急ぎ加勢として筑後の安武家教・三根郡の横岳家実を高来へ派遣し深江城へ入れた。

更に藤津・彼杵勢も加わり、更に兵糧の用にと多比良村50町の田地が渡された。

6月13日、深江城へ入っていた百姓らが、薪を取る為に外へ出た所、安徳領の百姓と出合い戦いとなって、安徳の者を2~3人殺害した。

これが安徳城へ聞こえ、入り番となっていた新納忠堯・川上忠堅・蓑田平右馬助ら数十人は城を駆け出て、この百姓を深江の城の外溝口まで追い立てる。

これに城から安富三介らが打って出て、これに横岳・安武勢も加わって激しく遣り合う。

うち新納忠堯は、安富家臣・村吉雅楽助と戦い突き伏せられ討ち死にする。

だが、村吉も深手を負っており首級を取る事は叶わず、横岳家臣・古館播磨守がこれを取った。

また蓑田も討ち取られ、上下8~9人が討たれた。

また、安富三介と川上忠堅が切り合いとなり、三介は忠堅に討ち取られ、忠堅も三介に手負いとされ引き退く。

これに乗じて安富勢は町下堂まで追撃した。

双方に多大な犠牲が出、三介らもその場で討ち死にしている為、新納・蓑田の首級も誰の首であるものか判らなかった。

圓宗掃部が見知っていた為、この首を隆信へ送り首実検に入れようとしたが、敵方より矢文にて首級の返還を求められ、純泰は弓箭の作法を無視出来ずこれを敵方へ返した。


その頃、隆信はいまだ田尻の鷹尾城を攻めんと柳川に在ったが、
昨年の冬からの長陣による士卒の心労を慮り、信生と話合い、
まずは田尻但馬入道了哲の江之浦城を攻め落とすべしと、信生ら佐嘉勢に肥後・筑後勢を加えて差し向ける。

竹木・蘆萱・土俵などを積んで仕寄り(塹壕)を作って城の切岸まで詰め寄ると、仕寄りより日夜鉄砲を撃ち掛けた。

そんな折の7月中旬、田尻と同じ「大藏姓」である秋月種実が家臣・恵利内蔵助を鷹尾城へ遣わし、龍造寺との和平に努めた。

結果、7月21日に双方応諾し起請文を取り交わした。

しかしながら、和談の際の入組(領地替え)の6箇所の内の1箇所が合意に至らず、結局和睦は破談となった。

本能寺の変により死んだ織田信長の、その弔い合戦に挑んだ羽柴秀吉から鍋島信生へ、昨年の書状に対する7月2日付けの返書が届いた。

(『北肥戦誌』に文面の写しあり)

「仰る如く去年の頃 示し預かり候。
それに就いては只今両人を差し越し被り、書中ならびに口上の趣き承り届け候。
従って今度、備中表に於いて敵城数ヶ所を攻め崩し、毛利陣中へ切り掛かり相果てるべき時、京都の不慮に付き、毛利が抱える国の五ヶ国をこちらへ渡すべく、懇望の筋目を以って和睦し馬を納め、すぐさま都へ切り上がり一戦に及んで、即時に切り崩して、三千余を討ち取り、明智の一類共を残らず首を刎ね、その身の事は機物(はたもの)に掛け置き候。
然る者に、御国々の先々まで静謐にするよう申し付け、先月の二十九日に上洛し、近いうちに播州姫路に帰城すべく候。
仰る旨は任せられ(←これも間違いかも)申し通せし上の者、疎意にあるべからざり候。
将また南京帽子送り給わり候。祝着の至りに候。(後略)

恐々謹言。 七月二日 羽柴筑前守秀吉(判) 鍋島飛騨守殿」


8月1日、安富純泰は龍造寺勢の合力を得て、安徳城へ攻め掛かる。

城兵はこれを防ぎ得ず、加勢の島津勢も船で肥後へと帰った。

このとき、龍造寺家へ人質となっていた肥後・隈部氏の子(隈部親房?)が肥後へ帰っていたのであるが、島津勢に攻められて討ち死にしている。


10月(おそらく9月か更に前)、島津忠平は肥後に在陣して、その諸所をも掌中へ治めんと活発に動き、龍造寺に与した者たちも島津へと降って行く。

その頃、隆信は須古に帰って居り、鍋島信生と話し合って龍造寺政家自身が肥後へ出馬すると決め、田尻への押さえを多勢残しつつ、筑前の筑紫・秋月、筑後の蒲池・草野・黒木・西牟田・高良山座主らが合力、併せて37,000余騎を以って柳川を出馬、瀬高通りに竹の井を過ぎて肥後へ打ち入ると、南の関に陣を布いて、先手を玉名・合志へ至らせ、高瀬・山鹿へと出征させた。

これを聞いた八代守護代・島津忠平(後の義弘)はこの頃 御船に陣を布いていたが(実際は八代城の筈)、ならば出迎えて一戦すべしと肥後の味方共(相良・名和・城・合志などと思われ)を催し、伊集院・新納・樺山・喜入・川上・福崎ら手勢を併せて御船を発って、龍造寺勢と(高瀬川(現:菊池川の高瀬大橋付近)を挟んで)対陣に及んだ。

大きな合戦になるものと思われたが、このとき秋月種実が龍造寺勢に参陣していたのであるが、
「両家の大軍が争い合えば、争乱は何年にも及び、民の難儀は増すばかりに御座れば」と、両家の和平に努めた。

龍造寺も島津も秋月に同意し、肥後を半国に分けて領すると定まり、忠平は八代へ、政家は柳川へ帰陣する。

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(※『上井覚兼日記』には、9月27日、秋月種実の使者が島津陣へ現れ、龍造寺との和睦を周旋したとある。
秋月曰く、「両家の大軍が争い合えば、争乱は何年にも及び、民の難儀は増すばかりに御座れば」と、両家の説得に当たった。
その際、「和平之儀・肥後傍示之儀・有馬表之儀、此三ヶ条也」と、和睦及び有馬との事に加え、肥後の領地配分に関する話合いが出された。
また使者は島津家に対し、「然者龍・秋御下知に参候て、大友御退治肝要候、左候て、嶋津殿を九州之守護と可奉仰候」と、「共に大友義統を討つならば、龍造寺・秋月は島津義久殿を九州守護と仰ぎ奉る」と述べたとしている。

そして10月9日、島津義久は秋月の和睦斡旋に応じる意向を固め、忠平は八代へ、政家は柳川へ帰陣する。そして同月22日に両家の和融の為に秋月の使者が八代へ来訪したとある)

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これより高瀬川より巽(たつみ:東南)方面を島津領、乾(いぬい:北西)方面を龍造寺領と定めた。

島津側は御船へ新納忠元を留め(島津側史書では八代城)、龍造寺側は龍造寺家晴を南の関へ、太田家豊・内田肥後の入道である栄節を大野別府へ、横岳頼続・姉川信秀を横島城へ入れて、それぞれ境を警衛させた。

またこのとき、肥後の栗栖正重が龍造寺家に属し起請文を出している。


11月、政家は肥後より柳川へ帰陣すると、またも田尻攻めを再開する。

同じく先ずは田尻了哲の江之浦城を、又も同じく竹木・蘆萱・土俵などを積んで仕寄り(塹壕)を作って城の切岸まで詰め寄り鉄砲を撃ち掛けた。

また、今度は釣勢楼(勢楼:偵察用の櫓)を用意、集めた鍬でその周囲固めて鉄の装甲と成し、内側は綿で拵えた。

これを釣り上げて城内を伺わせると、城内の堀を芥草(シキミ)を投げ入れて埋めさせ、更にその右の勢楼からは鉄砲を撃ち掛けさせる。

城兵はこれを防ぐべく大鉄砲を放って釣勢楼を撃ち落とし、夜は松明を投げて仕寄りを焼き崩し、堀の芥草は鑰(鉤)を以って引き上げた。


結局勝敗は着かず、田尻の籠城は500ヶ日に及んだ。

信生は了哲と親友であるという百武賢兼を召して、田尻鑑種との和睦を進めるべく、了哲を説くよう百武を使者として派した。

百武と対面した了哲はこれを応諾、了哲は鷹尾城へ入って田尻へ和睦を勧めると、田尻もこれに応じる。

そして同意に至っての11月27日、隆信・政家より起請文が出され、
12月1日に田尻一門9人の連判による起請文が提出され、
同月10日に鷹尾城を明け渡して自らは法体となり、嫡子・長松丸を代表として堪忍分の新地200町を差し出すよう約束させた。

信生は長松丸へ起請文を出し、龍造寺3宿老の小河信貫・納富家理・土肥家実から連署による起請文を提出すると、
同月下旬、鑑種は城を明け渡して、自らは堀切城へと移った。

12月25日に約定通り新地200町が渡されると、
翌年の2月2日に田尻は所替えにより、船で佐嘉へと移った。

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Re: おばんです!

ふぅ様

村・拍手 ポチありがとうございます^-^
テンプレートは、あまり探す前に最初のインパクトでコレにしました^^
多すぎるから眺めてると迷う一方なんで、あんま見ない^^;
(外食でメニュー決めるのに時間かかる人↑)

アナログコピペ~無理しないように、頑張って下さい^^/

おばんです!

村ぽちにきました!

やはり画面が見やすいですね~。
テンプレートが多すぎて悩むところですが、やはり公式よりも共有のほうがきれいなものが多いですね。

さ、また今から限定記事のアナログコピペを開始しま~す^^;

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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