【北肥戦誌・1584年】沖田畷の戦い

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薩州太守・島津義久は去年の夏に高来深江の戦で新納刑部・蓑田平右衛門が敢え無く打たれた事に大いに腹を立て、
急ぎ高来へ加勢を差し送り、有馬・安徳と合力して龍造寺方を退治するよう八代に在陣する弟の忠平へ下知した。

1月、忠平は新納忠元が御船に在陣していたのを、軍兵を与えて有馬の加勢として高来島へ渡らせる。

忠元は有馬鎮貴(前名:義純)に会すと、安徳純俊の城へ入った。

これを聞いた隆信と政家は話合い、ならば高来の味方へ力添えせよと下知し、
2月に先ず神代貴茂を安富純泰の加勢とし深江城へ入れ、その他に藤津郡の輩原・嬉野・吉田・永田らを有馬の抑えとし、大村信純を三城へ差し置き、海上には田雑大隅守を船大将として番船を附け、数日の間、有馬・島津の者と相戦う。


隔して高来での戦に島津・有馬の者共は龍造寺方が動けば討ち負けると聞こえ、義久は評議を重ね、常の如くに戦えば利を得られないと、
弟の島津家久に対し「万死一生の覚悟で龍造寺方を悉く討ち取るべし」と言えば、家久は了承しすぐさま薩摩・大隅・日向三国の中から健兵3,000を選りすぐり、
鹿児島の鎮守の神前にて3,000の者共と神水を飲み、此度高来の戦に討ち勝たざれば、生きて二度と帰るまじと誓って、十文字の白旗と采配を頂戴し、家久は薩州を打ち立って海陸を押して、3月13日、高来の島へ着船し、安徳城へ入った。

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(※但し『上井覚兼日記』では上記の様な事実は認められず。2月26日、合志親為の城へ龍造寺勢が攻め込んだとある。
2月11日に龍造寺勢が出国、13日に合志城を攻めている。

また、忠元もこのときはまだ八代に居るため、北肥戦誌の内容は矛盾してくる。

そして、合志救援に島津義久も来月2日に出征するよう皆に命じ、同時に中断していた有馬への加勢も行う事となったようである。
ちなみに、合志救援は間に合わず、親為は龍造寺に降っている。

また、島津勢3,000としているが、島津側の記録では総勢1,500(有馬勢は3,000)。
家久着船の報を義久は、16日に水俣から佐敷へ着いた際に聞いている。
また、家久の後続として21日には島津彰久・上原尚近が高来へ渡海、須川湊より上陸している。)

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このとき高来島の深江城には、神代貴茂の番兵が入っており、また島原城には安富純治とその次男・新七郎が入っていたが、島津勢が続々と高来へ押し寄せる為、これを防ぐ自信が持てず注進すると、ならばと須古の隆信自ら出馬し、蹴散らした上で鹿児島へ討ち入らんと気勢を上げた。

隆信は政家にも出陣を促し、皆に「わしと政家が高来へ出陣せし後の儀は、鍋島剛意入道(清房)を留守居とし、龍造寺家就・納富信景は城内に在って諸事を示し合わせて国営を司り、鍋島信生は柳川城にて筑後を押さえ、龍造寺家晴は南の関にてこれまで通り肥後を護れ。
龍造寺信周は一昨年より在城の一之岳城に在って、内野・安楽・平・飯盛ら番の者と共に筑前・豊前を守護すべし。
大村・松浦勢は船より肥前は神代の湊へ出征し、佐嘉・神埼・三根・養父・小城の者共は皆、わしと政家の旗本たるべし」。として3月下旬に高来へ出馬すると決した。

{二次史料に依る別説:隆信は有馬攻めが遅々として進まないのは政家が有馬の婿だからで、かくなる上は自ら出馬するとし、政家は村中城を守り、龍造寺信周・龍造寺家就・納富信景は城にあって政家を守護し、鍋島剛意入道(清房)はその後見となるよう命じた。}

信生は心中に忌み思う事が色々あり
(3月24日の『上井覚兼日記』に、龍造寺勢は肥後表へ出陣しようとしたが、肥前の畑地2~3反に蛇が大量に死んでいるのが見つかり、肥後出兵を中止したとの風聞があったとの記述があるが、この事か? また、フロイス『日本史』では、この2月に長崎に於いて夜の8時に、三、四度に渡って火柱が空に現れ、暫く続いてから消えたとあり、また陰陽師(おそらく勝屋勝一軒を指す)らが隆信が高来へ向かうと一命に関して恐るべき労苦と危難を覚悟せねばならないと予言したとある。)、
叶わぬまでも隆信へ今回の出馬を取り止めるよう須古へ赴き、隆信へ3カ条の凶を上げて諌めんとしたが、隆信は承諾せず、「此度、高来へ赴き軍勢を差配致すは、弓懸(ゆがけ)をはめて痒い処を掻くのと変わらぬ」と取り合う色も無かった。


隔して3月18日、隆信・政家は江上・後藤・神代を始め、小河・納富らのみならず、隣国の者共を合わせた都合57,000余騎で高来へと渡海する。

中でも隆信・政家勢は龍王崎より出船し、20日に神代湊へ着船、その他は22日・23日の間に三会の津に現れた。

また信生も柳川の城へ父・剛意入道を招き入れ、隆信・政家と同じく神代湊へ着船した。

(※『フロイス日本史』によると、信生は兵船50、5,000人で島原城へ入らんとしたが、有馬・島津の為に上陸できず、三会城へ入った。
着船当日に何らかの手柄を立てんと動いたが、それを見付けた島津勢が城門まで追い散らしたとしている。
また、多数が千々石城へ入っているとし、沖田畷の戦いそのものに参加したのは二次史料に在るように25,000で、他は千々石城・島原城などの別の場所に詰めていたのかも知れない。)

龍造寺の大軍が押し寄せると高来に聞こえると、島津家久・有馬鎮貴は評定を極め、其々に軍勢を配置する。

まず有馬の原城・日之江城には堀・志岐・本田・林田・白石ら有馬家臣を入れ、有馬勢5,000(二次史料では3,000)は島原へ出て森岳城に陣を布く。

家久勢3,000(島津側史料では1,500)は3月15日に安徳城を出て、これも島原へ着陣すると、新納忠元勢と左右に分かれ要害を前に充てる。

両側は牟田で中央に一筋しかない細道に対し、垂直に城戸を構え柴垣を以って塀と為すと、その影に弓・鉄砲数百人置き、矢先を揃えて陣を布いた。

また、これに赤星統家主従50余人が加わり、隆信に殺された二人の子の仇を討たんと先陣を申し出る。

これにより赤星勢は城戸へ配置された。


20日に隆信は神代へ陣を布き評定、先ずは高来の味方を援けんと諸所へ軍勢を入れて防戦させる。

24日、有馬・島津の本陣である島原森岳城を攻めるべしと決し軍勢を分ける。

一手は政家に信生を副えて大手中道へ向かう。

これに神代家良の名代・神代家利(家良はまだ若年の為)が加わる。

また一手は、江上家種・後藤家信の城原・塚崎勢を浜の手へ向かわせる。

一手は隆信の旗本勢にて山の手へ押し詰める。

その旗本の先手は信生の弟・小河信俊と納富家理、二陣は龍造寺康秀(前名:信種)と多久・上松浦勢、三陣に倉町信俊、他に龍造寺一族ならびに土肥・百武・福地・江副・安住・副島・鴨打・徳島・鹿江・西岡・渋谷・馬渡・前田・田代・重松・石井・諸岡・秀島・西村などを段々に備えさせる。

殿軍は藤津衆の嬉野尚道・原尚家・原氏家らである。軍奉行は成松信勝・百武信兼・円城寺信胤・高木太栄入道、軍監は勝屋勝一軒と定める。


別説として、このとき殿の頭は鍋島信房ともされる。また信房は藤津郡を守り、このとき参陣せず、犬塚・永田らと共に隆信の留守を守ったともされる。

3月24日の朝、隆信勢57,000余騎はそれぞれの割り当てへ向かうよう下知するが、礑とこれが変更となり、隆信自らが中道へ向い、中道の筈であった政家・信生・神代は山の手へ向かう事となった。


(辰の刻)隆信勢は法螺貝・鉦を鳴らして進軍、敵の構えた陣城の城戸近くまで押し寄せる。

だが、敵は静まり返って音を立てなかったが、頃合いと見たか、柴垣の間より弓・鉄砲を雨の如くに放った。

そこへ一様に赤装束に身を包んだ赤星勢50余人が、城戸を開いて遮二無二突いて掛かる。

その迫力に先手は討ち負けて色めき立った。

これを救わんと味方が進み出るが、道の両端が沼で中央は僅かの細道である為、矢面に立つ者は5人から7人と敵に当たり、後続も援けようがなく一方的に射伏せられ、退かんとしても、後陣が閊えて退こうにも退けず、旗本勢も一歩も進めなかった。

これに隆信は気を揉み、馬廻りの吉田清内へ先方を見てくるよう命じる。

清内は先陣の者らに大声で、「先陣の面々臆して進まざる故に、二陣・三陣、御旗本までも差し支えて進めて居らぬ。命を惜しまず即座に掛かれとの大将よりの御下知なり」

と触れれば、先陣の者達は憤激し、ならば死を一挙に定めんと、小河・納富勢は左右の沼に続々と駆け入って進もうとする。

これを見た二陣・三陣・旗本勢に至るまでが、負けじと牟田に飛び降りたが、草摺・上帯・胸板まで見えなくなる程に泥にはまって身動きが取れなくなった。


赤星・島津勢はこれを見て「得たり」と、良き首を見定めて矢を射掛ける。

佐嘉勢は逃げる事も出来ず、真先に進んだ小河信俊・納富家理・龍造寺康秀・倉町信俊ら数百人は算を乱して討ち死にし、その他の士卒も右往左往し敗北する。

(※二次史料には、沼はあったが、進軍出来ない程に広大ではなかったとの説が解かれているものがある。
つまりは敵を侮り、江上・後藤が砲撃に乱され、籠るのみだろうと思っていた島津・赤星が、真一文字に隆信目指して駆けたのに意表を突かれ、二の足を踏んだのではないかとしている。)


隆信は大肥満の大将で、馬から山駕籠に移り、小高い所で床几に腰掛け、味方が分捕りし、或いは討ち死にする様をしばし見ていた。

島津勢は勝ちに乗じて突撃、龍造寺勢を屠っていく。


(※『フロイス日本史』によると、沿岸の江上・後藤隊へは、有馬勢の船から半筒砲二門が討ち掛けられたとある。
砲手が無く、止む無く一人のアフリカのカフル人(エジプト北部の民族)が弾を込め、一人のマラバル人(インド南西部の海岸地方の民族)が点火していたが、大軍ゆえに当り損ねがなく、一発で十人を倒した砲弾もあったという。
敵の兜が断片となって空中に舞い上がるのが見え、船内では砲弾が当たる度に跪いて両手を合わせ、「パアテル・ノステル・クイ・エス・イン・チェリス・サンクチフィチェツル、ノーメン、ツウム」の祈りを声高に唱え、そして再び砲撃を開始した。江上・後藤勢は、一部が潰走し、一部が中央に合流していったようである。)


「龍造寺四天王」たる木下昌直は鍋島に属して山の手に在り、江里口信常は敗戦の中で行方知れず
(その後に隆信討ち死にを聞くと、討ち死にの者の首を切って島津の味方を装い、家久に近づいて切り付けたが、家久の馬廻りに取り囲まれて斬り殺される。
家久は「それは無双の者なれば援けよ、援けよ!」と命じ江里口を生かそうとしたが、もはや遅かった)、

成松信勝は主従16~7人と共に、味方が次々に討たれるのを見て、「我が死に時は今なり。なれば御大将の御目が前にて討ち死に致し、兼ねてよりの君恩を生前に報い奉らん」
と、金に日の出が書かれた扇を開き、「我は先年、豊後が大友八郎を討ち取りたる成松遠江と申せし者ぞ。相手に取って不足あるまい。この首取って手柄と致せ」と呼ばわった。

これに敵勢が殺到する中、長刀を以って渡り合い、主従が次々討たれる中、自らは敵7人を倒し、8人目に掛かる際に遂に力尽きた。その嫡子である又兵衛も同じく討ち死にした。

百武信兼は主従40余人と共に、隆信を逃がすべく敵前に塞がり、主従共々討たれた。円城寺信胤は隆信と同じ毛の甲冑を着ていたのであるが、「我こそが龍造寺隆信なり」と名乗りを上げ、敵の只中へと駆け入って討ち死にした。


高木太栄入道は隆信の元を離れなかったが、敵に向かう様を隆信に見つかると、太郎(太栄の俗名)はここに残れとの命を振り切って、敵に駆け入って討ち死にを遂げた。

隆信は小姓の鴨打新九郎(16歳)を召して、「汝はまだ若年なれば人の嘲りもあるまい。早くこの場より落ち延びよ」と述べるが、
新九郎は笑って、「弓取り致す者が主の先途を見捨て逃げ去る法が御座ろうや。予てよりの御厚恩には、せめて御目が前にて討ち死に仕るを御覧候え」
と、群がり来る敵へ、主従6人と共に駆け入り14~5人を切り捨てて、自らも討たれた。

これを見て別の小姓・田中善九郎は、「公が御腹召されるならば、御介錯致さんと御前に居りましたれど、敵あまりに間近く襲い来る程にて、某は死出の山へ御先仕る」
と、他の小姓・福地千(隆信は戯れに「のな」と呼んでいたという)と共に、敵に挑んで討ち死にする。

隆信は近習が討ち死にする様を見て、もはやこれまでと、大音声を発して名を名乗った。

これに島津家臣・川上忠堅が進み出て、遂に隆信は討ち取られた。

天正12年2月24日、未の刻(PM2:00頃)、享年56。

(※『フロイス日本史』には、隆信の駕籠の後方で争いが起こり、隆信はこれを部下同士の争いと思いこんで「今は汝ら互いに争うべき時に非ず。汝らはここに隆信が在るを存ぜぬか」と怒鳴ると、それは島津勢であった為、隆信の所在が判明したとある。
また、隆信は槍を受けると合掌し念仏を唱えたとし、隆信の遺骸に十四、五歳の一人の少年(隆信は男色を専らとしており、この少年は男色相手だと記されている)が抱きついたが、それも討たれたと記述している)


※隆信の辞世に関しては『北肥戦誌』には記述がなく、『肥陽軍記』にのみ記述がある。
但し、『肥陽軍記』の現代語訳をされた原田種真氏自身、そんな暇はなかったろうと、辞世は後の創作とするような見解を示されている。)

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また他の史書に曰く、隆信は切腹しようとの気持ちを翻して逃亡する道を選ぶ、田中らが隆信の駕籠を担いで高所へ運ぶが、敵から逃げおうせず、隆信と聞いた川上らが近付くと、気付かなかった小姓らは逃げ散り、隆信は討たれたともある。

江上家種は城原勢を率いて後藤家信と共に浜の手で戦っていたが、隆信討ち死にを聞き、自身も父と同じく討ち死にすべしと、真先に立って戦う。

家種は当世無双の大力で、鎧を二領重ねて着流し、三間半の槍を二三本まとめて一つに掴んで敵勢に割って入った。

これを見て家種の命に代らんと、執行種兼を始めとしてその嫡子・種直、次男・新九郎、同族の執行式部少輔・執行興三右衛門・執行内蔵助・執行四郎左衛門・執行又兵衛・諸岡安芸守・諸岡対馬守・諸岡次兵衛・諸岡内蔵允・江上澄種・江上隆種・江上太郎次郎・江上彦四郎・枝吉三郎右衛門・島治部大輔・島上野介・島興五郎・島彌次郎・生野孫左衛門・江副中務允・西筑前守・畑地主馬允・牟田口進士允・古賀右衛門允・石橋三郎兵衛以下、執行一組30余人、諸岡一組20余人が我先にと駆け入り、一人残らず同じ場所にて討ち死にする。

その中でも鍋島種房・枝吉清兵衛・諸岡清左衛門・江藤助右衛門・青柳九郎左衛門・小柳清右衛門は家種の前後を離れず、命を捨てて戦い、枝吉は敵の首を取り手傷三ヶ所を蒙り、小柳も敵二人を討ち取って、その身に四ヶ所の槍傷を負い、青柳も同じく首を取った。家種も敵数十人を打ち倒した。

その後、生き残った者を連れ三会にまで出た。

道中で様々な難儀があったが、鍋島種房・江藤助右衛門らが働き、小舟を求めて筑後へ渡ると城原の城へ帰った。

後藤家信も塚崎の兵を率いて、江上家種と同様に浜の手に向ったが、戦いの最中に隆信討ち死にを聞くと大いに嘆き、諸共討ち死にすべきと敵に7-8度当り、大長刀にて薙ぎ伏せた。

これを見て、弓奉行・執行三郎兵衛は主の家信の前に駆け出て、敵二人を斬り伏せたが三人に当たって討ち死にする。

その他、八並信明(家信の異弟)・馬場隼人佐・古賀紀伊守・鬼石周防守・古川和泉守・千綿一平・畑地了信・畑地七兵衛らは家信を討たせまいと近付く敵に馳せ合わせ、我も我もと討ち死にする。

家信ももはや討ち死にというところで成松新左衛門が駆け付け、敵二人を斬り倒し家信を援けて一所になる。

そのうち久池井彌五左衛門ら2-30人が加わって、家信の馬の前後に立ち塞がり、馬の轡を取って渚に沿って引き退くと、神代の湊に着いて遅れた味方と待ち合わせ、心静かに船で塚崎城へ帰った。


鍋島信生は龍造寺政家の副将とした山の手へ向った
(※ちなみに二次史料には、政家が出陣していたとするものはない)。

神代家良の家臣や陣代の神代家利らがこれに加わる。

隔して合戦が未だに乱れる前、馬渡賢斎・矢作純俊が先駆けし、島津勢の陣場より艮(うしと:北東)の方である丸尾より乗り入る。

ここは猿渡信光とその子・彌次郎(※猿渡信光の子に、彌次郎という人物は島津側の史料では確認できない)が固めていた。

敵味方入り乱れて火を散らして戦い、佐嘉勢は大いに利を得て薩摩陣を切り崩すと、猿渡彌次郎を討ち取り、勇み進む所で、中の手を攻めていた勢の敗軍と隆信討ち死にを聞き、忽ち力を失い悉く敗走する。

このとき神代長良の陣代・神代家利を初め、神代中務少輔・福島加兵衛・三瀬大蔵・梅野大膳・国分左馬助・千住左助・古川蔵人・大江相五郎・神代相右衛門・藤原主水允らが留まって戦い討ち死にする。

鍋島勢からは、加々良大学・小森伊豆守らが討ち死にした。

政家は父の戦死を聞き、生きて如何で帰れようかと、数度引き返したが、水町彌太右衛門・犬塚新四郎らが立ち塞がり無礼に引き立て退却した。

信生も討ち死にせんと6-7度取って返して戦ったが、中野式部少輔が袖に縋って三会の方へ退去させた。

信生に従うのは、鍋島家俊・鍋島信清・綾部新五郎・南里太郎三郎・小森甚五・中野式部少輔、他に槍持ちの増岡軍右衛門、草履取りの笠原興兵衛、並びに家俊の従者・小宮三之允ら合わせて9人であった。

敵はこれを見て間違いなく大将であろうと思い、50人ばかりが追い掛けて来る。

これに綾部は引き返すと、敵を組み敷いて首を取り、中野式部は敵二人を打ち、信生も自ら敵を打った。

恐れを為した敵は引き返していった。

しばらくすると今度は敵300ばかりが鳥毛の指物を指して追い駆けては川越しに矢を散々に射掛ける。

これに再び取って返し、南里は矢に当たって臥し、家俊は敵を組み敷いて首を取り、中野式部は槍を突いて掛かる。この敵も引き返したが、これは島津家久であった(これは流石に嘘くさい・・・)。


隔して信生は、24日の夜に三会の船場へ出ると、主従10余人で田雑大隅守の船に乗って三会の津へ出る。

このとき、江上家臣・小柳清右衛門が此度の戦で手負いとなり歩行が困難となったのを、江上家種の許しを得て、信生の船に乗った。

信生は三会から(或いは神代湊、或いは多比良湊とも)出船すると、岳崎へ船を寄せてしばし休息、そこで密書を数通認めて小早で筑後の者らへ送った後、筑後から榎木津へ渡海して柳川へ帰った。


3月24日、政家は佐嘉へ帰城し、信生は柳川へ帰陣した。

その由が聞こえれば、このとき山門郡蒲池の城を警護していた重松範幸が、信生を迎え入れようと急いで榎木津まで出迎え、これを守護して柳川城へ入れると、武具・馬具を修理して中野式部へ引き渡し、自らは蒲池へ帰った。

信生の帰還に上下喜ぶこと際限なし。

中でも父・鍋島清房は嬉しさのあまり落涙止まらず、「御辺が此度生き残ったのは、偏に龍造寺八幡の御加護であり、国家長久の基である」と喜んだ。


龍造寺勢の討ち死には230人、別の史書では雑兵併せて800余人とある。手負いは数知れず。

また、吉田清内は敗軍後に逐電していたのを、探し出されて生害されたともいう。
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