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【北肥戦誌・1584年】肥前の熊死後

高来島深江城主・安富純泰の処へも有馬・薩摩勢が押し寄せ、隆信討ち死にを矢文にて知らせてきた。

深江城兵はこれを信じなかったが後に真実と知れて、「ならばこの城に居ても甲斐がない」
と、ちょうど深江番に入っていた神代貴茂と相談の上、父と弟が島原に在るのを振り棄て、城中の老若男女全員を連れ立ち、深江城から神代の城へ入ると、船で藤津へ渡った。

純泰の父と弟は、島原式部少輔の城にあったが、ここへも有馬・島津勢が押し寄せた為、島原と安富父子は有馬へ降った。

だが、安富父子は尚も龍造寺に志を通じ、5月15日に佐嘉へ赴かんとしている処を討ち果たされた。

島原式部少輔は薩摩に引き立てられ、その後は一家共々薩摩へ赴き伊集院家に従ったが、時節を伺い忍び出て、肥後の南まで逃げ伸びたのを追われ、一人残らず討ち果たされた。


龍造寺政家は帰城すると、納富道俊入道・龍造寺家就・龍造寺信周らが馳せ参じ、国家静謐の談合に及んだが、鍋島信生は何やら思慮があるようで、柳川へ遣いを立てても参上しなかった。

これに信周自身が長福寺まで来て、信生へ度々使いを出すと、ようやく信生は長福寺へ参じ少し密談した後に、信周は佐嘉へ帰った。

その後、信生は龍造寺家晴を柳川の城へ南の関より招き入れ、自身は蓮池城へ入った。

昼夜油断なく方々に注意し、色々と才覚を以って行った結果、龍造寺城下は少しも騒動なく、近国の者たちにも異心は現れなかった。

4月5日に肥後の小代親傅が、5月20日に大村純忠が、6月2日に肥後の隈部親永・親泰父子が、6月24日に筑後の黒木家永が、龍造寺に対して神文を送っている。


龍造寺家は評議の末、隆信の仇とは共に天を頂かずとして、弔いの軍を上げようとしたが、
秋月種実よりの使いが現れ、「いまだ花洛(京の都)の騒動すら鎮まらざるに、九州が大乱に及ぶのは天下の妨げ・災いであり、国民の苦しみです。まずは私的な憤りを静められ、少しの間でも島津と和平致されませ」
と述べた為、薩摩への派兵は留めた。


そして島津と龍造寺家は和融に至り、佐嘉より薩摩へ人質として小林播磨守・土肥相左衛門・副島長門守が出され、何れも5~6ヶ月薩摩にあって、天正14年6月中旬からは秀島家周が薩摩へ入り、その翌年の夏に帰った。


この夏、鍋島信生は、田尻鑑種を旧領の田尻・亀尻・海津の三ヶ所の返還を条件に、国境の警備として筑後の海津へ差遣した。


そして6月、隆信死去を聞いた大友勢が、志賀安房入道道輝・朽綱三河入道宗歴らに多勢を率いさせ肥後・筑後の間に派兵してきた。

大友勢はまず8月上旬に黒木氏の猫尾城・高群城を攻めようとする。

黒木氏の援軍要請により政家は、猫尾城へは《倉町信光》らと海津の田尻勢を、高群城へは土肥信安らを派兵、大友勢は猫尾城を攻めたが、落とせずに退いた。

しかし8月18日、戸次道雪・高橋紹運がその加勢として10,000余騎を率いて、筑紫・秋月領を次々と討ち通ると耳納山へ着陣した。

島津方・龍造寺方の草野・星野・問註所の家臣らはこれを遮ったが、戸次・高橋勢はこれを容易く蹴散らし、険峻な十余里の山道をたった一日で抜けて龍造寺方・蒲池家恒の山下城を攻めんとする。

家恒はこれを防ぎ難く降参すれば、戸次・高橋勢は次に黒木氏の高群城を攻めると決した。

これを聞いた土肥信安は佐嘉へ援軍を乞う。

政家は8月22日、猫尾城の加勢にいた田尻勢へ高群城の加勢に行くよう申し伝えた。

だが既に遅く、その二日後の24日に高群城は落とされ、土肥らは佐嘉へ帰還、城兵は大友方へ降伏していた為、田尻勢は海津へ戻った。

戸次・高橋勢は更に翌25日に西牟田鎮豊の領地を焼き払う。

その結果、筑後の龍造寺方の多くが大友方へ降伏した。

政家・信生は龍造寺家晴を柳川城へ入れるなど、大友と戦う準備を始めるが、そのころ島津勢も肥後平定に動き出していた。


9月1日、戸次道雪は黒木氏の猫尾城を攻める。

城は堪え得ず落城、道雪は9日に瀬高周辺の村々を焼き払った。

これに信生は、田尻鑑種を海津から垂水村へ陣替えして、これを防ぎ追い帰させた。

道雪は山門郡で暴れた後に高橋勢と合流、田原親家とも参会しての談合の末、まず西牟田村・酒見村・榎木津の在家数百件を焼き払って後、家晴の居る柳川城を攻めんとする。

しかし柳川城が要害で、且つ家晴が柳川城の周辺およそ50町の間にある北の酒見城・乾の榎木津城・東の蒲船津城・南の蒲池の要害と、更に垂見の要害といった5つの端城の防備も固めさせた為、
大友勢はすぐには柳川城へ取り掛からず、軽卒らに榎木津城を攻めさせる。

だがこちらも要害で破り得ず、次に東の蒲船津城を攻める。

ここには亡き百武信兼の妻・円久比丘尼がいたのであるが、この円久は女ながら剛の者で、大長刀を振るいながら士卒を励まし城戸口にて防戦、榎木津よりの援軍も加わった為、大友勢はまたも落とし得なかった。

だが一方、三池親基の古賀城と中野兵庫助の江浦城は降参させた。


筑後勢が大友へ攻められ次々と下城に及ぶに付け、政家・信生はこれでは敵うまいと、田尻鑑種が垂見へ在村しているのを田尻旧領の鷹尾の城へ籠らせた。

10月4日、戸次・高橋は草野鑑員の城(嫡子・草野家清が柳川城へ家臣の殆どを連れており無勢)を攻め抜き、更に島津方・星野鎮種の妙見城(弟と筑前国警衛に出ており留守)を落として近隣を焼き払い、次に問註所鑑景の井上城を攻めんとした。

が、このとき田原親家は生葉にあって家臣らに、
「此度、義統公より敵征伐に差遣され、軍労は莫大であるが、あの道雪・紹運め、何の下知も無い処に筑前を留守にしてここへ参って我らに加わり、諸所の城を攻め落とした。此度の戦功は悉くあの両入道の名に現れ、この親家が武名は一切ないかの如くに隠れよう。他人の功を立てる為に命を掛けて敵に陣を晒すより、急ぎ豊後へ帰って席を温めた方がよい」
と述べ、ちょうど士卒も長陣に困窮していた事もあってこれに同意すれば、親家は弟と共に府内へ帰ってしまった。


道雪・紹運は呆れ果て、ならば問註所攻めを延期して陣へ戻るべしと、高良山へ引き返してしばらく在陣した。

さてその頃、足利義昭は京都を追われ中国の毛利家を頼っていたが、再び上洛を果たすべくこの8月に九州諸将へ御内書を出した。義昭よりの三人の使者は其々、大友・龍造寺・島津へ向かったが、三家は係争中であるため今は受けられないと延引した。

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田原親家・・・・宗麟の子供たちが残念すぎるil||li _| ̄|○ il||l
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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