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【稲津の乱・悲劇の戦後処理前篇】飫肥藩初代藩主編10

1601年・公儀(この場合は豊臣政権~でも決めてるのは5大老筆頭の徳川家康)の裁定で、
日向・宮崎城は伊東家から、元の持ち主の高橋元種に返却された。

徳川家の手前、伊東家と高橋家は和解したが、問題は島津家との関係だった(_´Д`)アイーン

家康が島津征伐してくれれば、伊東家が佐土原の島津と小競り合いになったのは、
単なる通過点で済むはずだったし、伊東の軍功になってた。

だが関ヶ原本戦が勝利した後の、地方の戦闘が長期化するのを嫌った家康は、
島津征伐を取りやめ撤退命令を出してしまうil||li _| ̄|○ il||l

当主である島津豊久が西軍として関ヶ原で戦死したため、彼の佐土原の領地は公儀に没収されたが、
それで島津宗家と伊東の気まずい空気が無くなるわけではない。(逆に増々悪く・・・汗)

このまま島津の御家存続が決まれば、薩摩・大隅の二か国の太守・島津宗家に、
わずか3万6千石の伊東家は |国境|_ ̄)じー と、睨まれ続けるのだ。

伊東家は何とかしようと焦り、
島津分家と小競り合いをした本人である稲津重政は、伊東家で政治的に孤立するのだった。

家紋・伊東(伊東家紋)

伊東家の焦りの一つに、父・祐兵(すけたけ)の死で当主となった嫡男・祐慶(すけのり)に対して、
幕府から「領知宛行状=領有を認める保証書のようなもの」が発行されていないことがある。

領知宛行状は一度貰えばOKではなく、有効期限は貰った当主一代限りで、
伊東家でいうと祐兵の死で消費期限が切れている。

新たに家督を継いだ祐慶クンは、改めて公儀から発行して貰わなければならないんです。

また大名当主の代替わりに関係なく、将軍の代替わりの時に再交付される事もあります。

これは新将軍の権威付けのためで、文書としての形式が整ったのは寛文年間(1667年)です。

徳川家康から新将軍・秀忠に代替わりしたが、諸大名への領知宛行状は出ていない。

発行されたのは1617年・・・つまり豊臣家が滅亡した後のことです。

徳川家では実質・領地宛行状と同様の裁定をしていながら、文書の発行そのものは豊臣家が滅ぶまで慎重でした。

ですが伊東家では、そこまでの高度な政治判断がなされているとは思いいたらず・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

いや気づいていたとしても、祐慶クンが宙ぶらりんの放置プレイにあっていることには変わりないわけでして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

少しでも良い立ち位置に・・・公儀の覚え目出度く・・・と伊東家は涙ぐましい努力をします。

大坂の陣の前に「5万石以下の小大名の武功は単発でカウントされない」と知ると、
(小大名は与力大名(下世話に言うと金魚のフン)として、大藩の軍編成に組み込まれちゃう)

全ての土地を引きはがすかのようにして領内の強制検地を敢行し、
3万6千石から5万7千石という数字を叩き出して、幕府へ報告するんです。

もちろん「台所は火の車」なんて文学的表現を通り越して、決算書が大炎上~

そこで祐慶クンは、船の材料に適した飫肥杉の殖産事業に励んで収支トントンするのです。。(-人-)ガンバリマシタ


話戻って、1602年の稲津重政です。

日向記によると家中で孤立した稲津はヤケになって粗暴な態度が目立つようになったとあります。

宮崎城攻撃の時に、祐慶から借りた「秘蔵の愛馬」を何時までも返さない。

そこで家臣が派遣され「もういい加減に返しなさい」と言ったら「そのうち返すつもりだった」と稲津の答え。

稲津の不遜な返事に「それが主君の使者に対する態度か!」と使者が逆切れし、
脇差を抜いて稲津に斬りかかった。(使者の方も問題あると思うが

驚いた稲津が(主君の使者と会うので丸腰・まるごし=武器不携帯だった)部屋から逃げると、
次の間に控えていた稲津の家臣が「主君の使者を」「斬り殺してしまう」(゚ロ゚屮)屮ぇええっ!

これが伊東家で大問題になった(そりゃそうだ

報告を聞いた祐慶クンの生母・阿虎の方(この時は夫の菩提弔って尼姿)が、
ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「稲津を殺せ!」と命じたと伝えられている。

さらに国家老・松浦までが「稲津に粗暴の過度あり」と大坂にいる祐慶に訴え出た。


祐慶クン15歳は、産まれたのは日向だけど、物心ついたときには大坂屋敷で(人質兼ねる)暮らしていたので、
国許の事情が皆目(かいもく)分からない~~

ましてや奇跡の御家再興を果たし「伊東家・中興の祖」と称えれる偉大な父・祐兵が、
42歳の働き盛りで病死したばかりで家中の動揺が治まってない。

さらに祐兵の晩年は関ヶ原を生き残ることで手一杯~~
嫡男に領地を統治する術など、伝えきることが出来なかった。

祐慶少年は、後年の飫肥藩の実質・初代藩主として、藩の基礎を築いただけあって聡明な少年だった。

だが「稲津の早すぎる出世に対する妬み」「島津との関係修復には稲津を排除すればいい」
という家中の空気」を覆すほどの政治力はまだ無かった。

・・・・・・稲津を庇いきれず、祐慶少年は稲津に対して【上意・切腹命令】を出す(T^T)


1602年8月18日~切腹命令を不服とした稲津が清武城に立て籠もった!
後に言う「稲津の乱」である

だが地元に伝わる話では、やや・・かなり事情が異なるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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