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【北肥戦誌・1587年】肥後国人一揆、前篇

天正15年 (1587)関白の九州下向が決定すると、政家・信生は1月2日、20,000余騎で筑後へ入り、島津方・蒲池鎮運の山下城を攻めた。

田尻鑑種はこの周辺の集落を焼いたが、城は堅固で落ちなかった。

1月25日、関白の先手として秀長の70,000余騎が京都を進発する。

3月1日、関白が出京、25日に赤間ヶ関へ到着。鍋島信生は先達て上洛していたが、関白に供をして下向、
4月11日に政家と共に関白の本陣に参じて、薩摩への先手を申し出た。

4月、豊前の長野鎮展・城井鎮房・高橋元種が降参。秋月種実・問註所・黒木も降参。
政家・信生37,000余騎は先手として肥後へ討ち入る。

5月4日、関白勢150,000余騎が薩摩へ入り、川内川へ陣を布くと、義久兄弟ならびに家臣ら悉く降参、
関白は7月4日に赤間ヶ関より出船、18日に大坂に至り21日に帰城。

6月、佐々成政は関白秀吉が薩摩より御帰路の折に肥後国の守護職を賜り、同月に入部し隈本城へ入った。

このとき肥後の地侍共へも銘々御朱印を以って領地が下された。

然るに7月1日、成政は地侍らを隈本へ召集し、今回秀吉の代理として命を与える旨を申し渡すと共に、国中の仕置の事など談じれば、何れも異議無く了承した。

その集まりの中に隈部親永も出仕していたのだが、
成政は「御辺の領地は800町の御朱印である。これに検地を入れて引き渡そう」と述べた。

親永は不機嫌に「その儀は関白殿下の上意にも、菊池・山鹿・山本の三郡にての800町を所有する事に相違ないとされました。検地の儀は御免あれ」と返したが、成政は承諾しなかった。

隈部は腹を立て、「我らが領地は先規の如しであれば、成政の支配などとは心得難い。その上、国中の侍の中で我が領地だけ検地を受けるとは面目が立たぬ。まして持領を何故他人に手に依り検知されねばならぬのか」と言い捨てて席を立つと、直に居城へ帰り引き籠った。

これに成政は、親永と嫡子の親泰が不和であると聞き、親泰の元へ密使を送って、父を殺して味方に参じれば隈部本領を保証すると伝える。

これに親泰は弟の有働兼許・内久賀鎮房を招いて内談するに、如何に不和とはいえ親を討つ法はないと、
父子兄弟一所に討ち死にすべきと定めて、この上は佐々が隈部攻めに取り掛かる対策を用意し始めた。






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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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