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【北肥戦誌・1587年(肥後国人一揆、後編)】

翌16日、成政は甲斐の御船城を攻めるべく、家臣・松原五郎兵衛に軍勢を与えて差し向ける。

甲斐宗立は茶臼山の敗戦で痛手を負い、御船へ帰らず健軍社あたりに居たのだが、これを知って御船へ急行した処を松原勢に見つかった。

宗立は逃れ得ず、雑兵の手に掛かるよりはと、六ヶ所村の地蔵堂へ入り腹を切った。

家臣も共に腹を切ったか、或いは逃亡した為、御船はそのまま空地となった。


松原は勝利し隈本へ帰城したが、いまだ山鹿が籠城中であり、隣国にも関白に領地を削られ、没収された者がいる。

豊前の長野三郎左衛門、筑前の原田五郎右衛門・麻生筑前守・宗像氏景、筑後の三池河内守・蒲池兵庫頭・草野左衛門尉、肥前の草野中務大輔・西郷弾正忠、肥後の城久基・赤星統家・和仁宗傅(親実)・永野左京亮・伯耆(名和)顕孝・辺春紹心らは悉く隈部に同調し、既に鎮西の騒動となっていた。
(?城久基と名和顕孝はこのとき上洛していた筈なので記述者の勘違いのようです)

また、山鹿の付城の兵糧が尽きかけていたが、成政は兵糧を運びに動けず、柳川の立花統虎へ援けを頼み、更に関白へも一揆の蜂起を注進した。

立花は柳川に入部したばかりであるが、人数を集めて僅かに武士200、雑兵1,800で肥後境まで出陣した。


一方の関白は、急ぎ四国・中国・九州の諸将を一揆退治に差し向けるよう述べ、四国衆は浅野長政・安国寺恵瓊、九州宗は小早川隆景・久留米秀包・立花統虎・高橋統増その他近国の諸氏が肥後へ出陣する。

軍奉行は中津の黒田考高・小倉の毛利勝信である。

このとき龍造寺政家は病であり、名代として江上家清・龍造寺家晴が佐嘉勢を率いて出陣した。


8月、江上家清らは肥後に討ち入り山鹿へ着陣、まず付城を構えて兵を入れた。

その上で大智越前守500余人が籠る大田黒城を攻めんと陣中に兵糧を運ぶ。

しかしその半ば、城兵が急に打って出て鉄砲を撃ち掛けた。

これに江上家臣が戦うが、不意の攻撃であった為に討ち負けた。その死傷者は数知れず。


鍋島信生はこのとき大坂にあったのを、関白より暇を給わり急ぎ船で帰国したが、
途上の赤間ヶ関で政家が出陣していないと知り、直接肥後へ赴いて小早川・浅野・黒田・毛利・安国寺らと対面した。

その際、浅野より「政家殿、此度病と称し出陣無く名代出されるとは、何とも心得難い」と述べる。

これに対し信生は「主君・政家が命令を疎かにするなどありません。某、急ぎ国へ趣き、政家を伴って出陣致しましょう」と返した。

が、諸将は尚も信生を疑い、信生帰国に関して評議すると小早川隆景が、
「鍋島殿の予てよりの心底は私がよく存じております。嫌疑を持たれる必要はないでしょう」としたので、信生は佐嘉へ戻り、8月20日過ぎに政家を伴って20,000余騎を肥後へ差し向け山鹿へ着陣、江上勢らと併せて陣を構えた。


9月7日、立花統虎は佐々の付城へ兵糧を運び入れんとしたが、敵城より有働志摩守勢が討ち出て、永野原の道を通る立花勢を追い掛け、統虎へ襲い掛かる。

このとき立花勢は、内十但馬守らが統虎より先に進み過ぎ、小野和泉守が後ろ過ぎてまだ来ていなかったのであるが、内十但馬らが引き返し、小野和泉らが追い付くと、有働は前後より挟撃される形になり、討ち負けて逃散した。

統虎は手負いを援けながら、既に南の関にありながらも引き返したが、これに大田黒城の有働左近将監が城から打って出て矢を射掛ける。

統虎は油布上総守らに下知して300人でこれを追い払うと、そのまま城へ切り上がり、その日の酉の刻に城を攻め落とした。

城の大将・大知越前守は立花家臣・池辺龍右衛門に組み伏せられ討たれた。

立花勢は勝ち鬨を上げて北の関へ帰陣した。


このとき、山鹿の近く高挟城主の合志親為も隈部に同調して籠城していた為、龍造寺勢はこれも攻めるべしと9月初旬に奉行から命が下った。

親為は、政家・信生とは旧交ある者であるため、政家はまず降伏するよう使いを出した。

だが親為がこれを拒否した為、9月5日に政家・信生は山鹿から高挟へ陣替えした。

先手は江上家種とし、すぐさま城へ攻め掛かる。

すると城内より合志一門数千人が打って出て激しく攻め掛かる。

寄せ手も奮戦し、合志明存入道・合志対馬守という親為の親類にして一揆の首長二人を討ち取った。

これに城兵は気力を失い、城へと退いて行った。

そして城攻めに移行、鍋島家臣・武藤貞清が火矢を放って城の一方を焼き立てると、親為は防ぎ難く逃れて出奔した(和を乞うて下城したとも)。

信生はすぐさま城を検視に引き渡した。


11月下旬、一揆の棟梁・隈部親泰はなおも山鹿へ籠城していたが、浅野長政・安国寺恵瓊が
「怨敵の思いを翻して開城降参されれば、我らの計らいを以って上に取りなし、本領安堵させましょう」
と方便を述べると、親泰はすぐさま城を明け渡し、有働兼元・有働志摩守・北里三河守・北里式部少輔ら4人と降人となった。

そして主従80余人を従えて浅野・安国寺と共に上洛しようとするが、豊前の小倉にて明日出船という晩、当所の地主・毛利壱岐守の家臣らに取り囲まれ、一人残らず討ち果たされた。

また、隈部親永・内久賀鎮房・有働一族10余人は皆柳川城へ入れられ、立花統虎に預け置かれた。


12月下旬、和仁宗傅・辺春紹心兄弟が籠る和仁城を攻めるべく、小早川隆景・久留米(毛利)秀包・安国寺恵瓊・立花統虎・龍造寺政家らは彼城を取り囲む。

本丸は宗傅と嫡子・勘解由左衛門が、二の丸は紹心と弟の辺春宗胤が、三の丸は宗傅次男・弾正ら一族被官3,000余がそれぞれ立て籠って矢玉を討ち掛けていた。

小早川らは数日攻囲したがそれでも城は落ちない。

そこで信生は家臣・辻小左衛門を二の丸へ入れて辺春紹心を城外へ呼び寄せて対面する。


対面した紹心へ信生は、「御辺は天下を敵に回し、争って本懐を遂げられるのか? 数代の家名を失うことよりすぐさま心を翻して、和仁父子を討って降伏されよ。そして身命を全うされ、子孫はこの飛騨守(信生)が助命を訴えるので、本領安堵を嘆願されよ」と方便を述べた。

和仁はこれに応じて二の丸へ帰ると、弟と共に本丸へ忍び入り、和仁父子を斬り殺し、その他も打ち果たして三の丸へ押し詰める。

これに合図を定めていた鍋島勢も三の丸へ乗り込み奮戦、討ち死にを多数出すも、
鍋島家臣・南里助左衛門が城内を走り回って火を掛ければ、城兵は防戦叶わず逃げ散り、
和仁弾正は生け捕りとなって落城する。

信生は秀吉から12月27日に感状を賜った。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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