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龍造寺家兼_10【筑後乱れる・前篇】

1502年1月16日。

竜造寺家和は、千葉興常の推挙で足利義尹へ御礼を遂げる。

北肥戦誌では、この時の家和を「当主」と記している。

嫡男で当主だった兄・胤家が肥前を出奔後、次男である家和が竜造寺当主となったのだ。

早い話、竜造寺内部は「長年の付き合い・少弐+西千葉押し」と「現実路線・大内+東千葉押し」に分裂したのだろう。

少弐が(例によって)滅亡寸前になったので、「少弐+西千葉押し」の胤家が現役当主でありながら、
政治的に失脚したんです( ̄ω ̄A;アセアセ

ちなみに千葉興常とは大内がバックアップしている東(祇園)千葉氏当主。

ちなみのちなみに足利義尹は室町10代目将軍で、色々あって京都を追い出され大内の保護下にある。

ちなみのちなみのちなみに御礼の中身は「軍功により加増され大身となった事」への御礼m(__)m

北肥戦誌に詳細はないのだが、西千葉と東千葉は幾度か戦に及んでいたらしい。

東千葉が推挙するところを見ると、新当主・竜造寺家和は東千葉サイドとして働いたのだろう。

既に水ヶ江に分家していた竜造寺家兼も、この動きに倣ったと思われる。

家紋・竜造寺(竜造寺家紋ロゴ)

同年・大友義鑑(よしあき~宗麟パパン)が誕生^^/

同年・大友義長が筑後へ兵を進める

月日不明だが、どうも1502年後半っぽい。

さらに、大友に便乗して少弐残党が加担してたらしい。てか少弐と大友で打ち合わせ済だったかも。

そもそも大友と少弐は「打倒大内」のために、
ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!と累代タッグを組んでいる間柄なんです。

明けて1503年~大内義興が陶尾張守を派遣、大友+少弐と激突!

この戦いは決着がつかなかったようだが、
この後の大友は肥後・阿蘇氏の家督にチョッカイ出しているので、いったん筑後から兵を引いたようだ。

やはり少弐は滅びてはいなかった。

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

少弐は大友と手を組むことによって、再び息を吹き返したんです。

大内が手駒として押さえているのが前の将軍(10代目)足利義尹

大友が押さえているのが、現将軍(11代目)足利義澄


北九州の覇権を巡る争いは、少弐と大内の争いから、大友と大内の争いへと質的に変化をし始めた。

少弐の役割は、大友が北九州へ食い込むための「大義名分」であり「地元橋頭堡」。

以前の御家再興の時は対馬・宗氏が全面的にバックアップ御膳立てしてくれました^-^オンブニダッコ

だが宗氏は落ち目の少弐から手を引き始め、当主も代替わりして縁遠くなってきている。

宗一族の一部のみ、少弐に助太刀しているが、少弐が復活した場合の保険っぽい感・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

大友の野心が何であれ、今の少弐が頼る相手は大友しかいないのだ。

1504年・・・少弐は大友の支援で、大内に反旗を翻すのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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