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【肝付氏他】

●肝付越前守兼演入道以安 :三郎五郎
越前守兼固の子。子孫は喜入領主・肝付主殿。忠兼公御家老。

家嫡・河内守兼忠の三男・越前守兼光が大崎を領す。その子・兼固は文明18年に大崎より移り、隅州溝辺を領す。
大永6年11月、忠兼公より虎寿丸様へ御家督御譲りの時、忠良公相模守に御成り遊ばせた折、樺山信久は安芸守に、兼演は越前守に罷り成り候。
同7年4月、忠良公、帖佐の内、辺川・加治木・木ノ内・中ノ州を下され候(加治木を攻め取るは、この年とも云う)。
天文3年、兼演、加治木を攻め取り、溝辺より加治木へ罷り帰り候。
同6年、兼演、島津実久の催促に応じ、一旦貴久公へ敵対致し候。
同18年11月下旬、北郷忠相・島津忠親へ相付き降参仕り、
12月11日、兼演父子、清水へ参上仕り御目見え仕り候て、前罪を謝り奉り候。
同19年、加治木郷安堵の御判を下され候。同21年7月4日卒。享年55。存庭兼祐居士。

{二次史料より:永正16年、勝久の命で伊集院尾張(曽於郡代)を討つ。享禄2年、加治木略取。勝久家老。喜入肝付家祖}

●肝付弾正忠兼盛 :袈裟寿丸、三郎五郎
天文2年生まれ。兼演嫡子。母は廻兵部少輔の女。貴久公御家老。貴久公の御妹聟なり。

天文23年、蒲生・渋谷らまた叛くに於いて、兼盛、異心なしの旨の誓紙を進上仕り候。8月、祁答院・入来院・蒲生・渋谷らの凶徒、加治木を攻む。北原もまた渋谷に加勢致し候。同29日、兼盛、網掛川に於いて合戦致し、凶徒4人を討ち取り、清水・宮内・姫木・長浜の後詰来りて、9月10日、また合戦。大隅衆また後詰として着船候。同13日、貴久公御父子、後詰の為に平松へ御着陣。凶徒ら驚きて加治木を引き退き候。

弘治元年3月8日、兼盛、溝辺・加治木・日当山・長浜の衆を召し連れ、帖佐の山田へ押入り、伏兵を以って凶徒23人を討ち取る。加治木の 卒将・徳永与一左衛門、安田杢之丞、歩卒2人の他、溝辺・長浜の歩卒ら戦死。
同4月2日の夜、凶徒、利を失い、帖佐新城ならびに山田城を捨て祁答院に退く。これらの賞として、貴久公より西別府・有川を下され候。
永禄4年5月、肝付省釣、廻城を攻め取り、義久公御発向し、兼盛罷り立って手負い。
同6年、飯野御危急のとき、籠城致した軍労に付き、義久公より御書発給さる。
同9年、三山城攻めの御供をし軍労。同10年、菱刈御退治軍功。同11年、忠平公、馬越城より大口を御攻めのとき、力戦仕り候。

同年2月28日、島津忠長同道にて、馬越より市山へ差し越し、新納忠元同心にて、小苗代薬師へ参詣致す処、大口城より敵打ち出て忠元難儀に及び{後述}後殿なり。
同12年、忠元・兼盛ら大口城を取り囲み、敵遂に利を失い降参致し求摩へ退散。その為、義久公より御感状ならび曽於郡のうち上三台堂を下され候。
元亀2年、肝付・伊地知・禰寝の御退治に兼盛、罷り立ち候。天正4年、高原城攻めにも御供仕り候。同5年、日州御発向に御供仕り軍労。
同6年8月11日卒す。享年46。殉死・二宮肥後守の他は、切り指すると云う。


○後述:新納武蔵守忠元入道拙斎為舟の項より抜粋
永禄11年2月28日、馬越より戦の談合の為、何れも市山へ来たり、その晩に小苗代薬師へ参るべく島津忠長と肝付弾正が同心にて参り候ところ、大口城より見付け候て、多勢打ち出て皆々市山へ引き入り候を敵追いかけて彼所にて応じ候えども、敵雲霞の如く取り掛かり一大事に及び候ところ、市山向之坂の上に忠元応え、敵に指し合い槍合わせ候。
このとき被官・久保筑前一人を召し連れ求摩の足軽・竹添丹波と申す者、後ろより忠元の左の片腹を槍にて深く突き候を筑前見て、忠元を坂の下に引き下ろし候。
そのとき、槍を取りは放れ{手放し}刀を寝ながら抜き候て、敵に差し合い候。槍5-6本にて叩き掛け候を、相しらい市山外の垂まで退き入り候。
このとき小苗代にて敵2人(一人は川畑甲斐守)市山丈の垂にて3人(一人は東郷藤左衛門と申す名の有る武士なり)討ち取り、腹と頭に槍疵6ヶ所、このときは我ながら随分の働きと申し候由。伯囿公より長谷場織部介・三原右京亮を市山へ差遣、御感の由 仰せ聞き候。忠長・兼盛も途中にて敵に遭い合戦し、新納右衛門・鎌田尾張迎えに出候て帰ると云々。


●肝付弾正忠兼寛 :袈裟寿丸、三郎五郎。加治木弾正という。
兼盛嫡子。永禄元年生まれ。母は忠良日新斎公御女。

天正3年3月16日、犬追物射手、三郎五郎、4疋射る。17日にまた射手、5疋射る。4月21日また射手也。
天正6年、大友日州に入り、義久公御発向御供、11月11日敵敗北のとき軍労。
同8年10月15日、肥後矢崎城攻めのとき、敵数多討ち取り候。同9年5月15日、諸将と組み、肥後室(肥後宝とも)河内を攻め抜く。同10年8月18日、水俣御陣御供。同11年、諸将と組んで八代へ出陣、肥後より肥前有馬へ発向致し、同12年、肥後日比良を攻め抜く。
同11年9月、肥後八代へ罷り立ち、10月、諸将と組んで堅志田を侵す。同11月、花山城を築き各々帰国。
同12年3月、肥前有馬へ罷り渡り 戦功あり。同年6月上洛。9月29日、加治木へ下着(日記より。何の故あって上洛するか可疑)。
同13年8月13日、諸将と組んで肥後阿蘇を破り、同閏8月13日、堅志田城攻め、上井覚兼を先登として内城を攻め落とす。今夜、

覚兼と内城に罷り在り候。上下鎧の袖を片敷き一夜を明かし候なり。
同14年1月13日、諸将と組んで日州高森を攻め落とす。同年7月、諸将と組んで岩屋城を攻め落とす。同年10月、豊後入りの御供於いて諸所にて軍労。同15年、豊後引陣にて軍労。

同18年3月3日卒。享年33。利翁守益庵主。
兼寛領高 15,084石。城9つ。領地:加治木・溝辺(地頭は家臣・新納三河守久林なり)・踊・日当山・三代堂{三台堂}。


●肝付三郎五郎兼三
兼寛養子。実は伊集院幸侃の三男なり。

文禄4年、加治木・溝辺・三台堂を召し上げ、薩州喜入ならびに阿辺郡のうち宮清を下される。
同10月26日、加治木より喜入へ罷り移り候。
慶長2年、兼三、300余人召し連れ、高麗へ罷り渡り、加徳島御陣に罷り在り候。同5月、兼三、幼稚にて帰朝仰せ付かり、家老・前田久右衛門盛張が軍代官勤め候。
同4年、父・幸侃の隠謀露見し伏誅ゆえに、兼三、肝付家を去り阿多に移り、後に誅され候。


●肝付越前守兼篤 :兼仍、小五郎、狩野介、伴兵衛尉。
兼寛後嗣。実は兼盛の次男なり。 永禄5年生まれ。生母は菱刈兵庫頭重猥の女。

慶長4年、兼三が去り、当家・兼盛忠功の故を以って、龍伯公、兼仍に家督仰せ付け候。兼三去り、河辺のうち清水(前には宮清とあり、これには清水とあり是の非を知らず)高800石余召し上げ候。
同年、庄内御陣御供軍労。同年2月16日、御家御安定の御祝言のとき、公を伺い仕り候。
同14年、琉球征伐に兼篤軍役、84人を召し連れ2月25日喜入を立ち、28日に家久公、山川へ御着き、兼篤は大島を攻めよとの御意受け候。3月3日夜半、諸軍と組んで山川を出帆、同7日、大島へ着船、島中尽く降伏、同17日、徳之島へ渡り、同25日、琉球運天津に入り、今皈仁城、未だ戦いて没落。4月4日、国王降参にて下城(5月5日、琉球出船。同21日、鹿児島へ凱旋すと、西藩野史に見えたり。野史には、25日、薩州に帰るとす。また兼篤の渡海の事を記せず)。
同年6月29日卒。享年48。傑心大英居士。


●肝付弾正少弼兼武 :鶴寿丸、長三郎。
兼篤の子。慶長6年生まれ。生母は岩切善信入道可春の女。

慶長14年、9歳のとき家督。同年に於いて、家久公の御前にて元服、号を長三郎兼武とし、御刀一腰(祐定)拝領。また国分加治木へ参上仕り、龍伯公・惟心公へ御目見え仕り候。
同19年冬、大坂御出陣のとき、100余人召し連れ肥後まで罷り立ち候。同年、河辺・宮村召し上げ、日州真幸吉田のうち西明寺ならびに、津留村のうちに御繰替え下され候。
元和年中、諸士石行四部一(?)召し上げのとき、50石進上仕り候。
寛永2年8月19日卒。享年25。法名:自性了源居士。


●肝付伴兵衛兼屋 :兼治。鶴寿丸、三郎五郎。
兼武の子。元和5年11月14日生まれ。生母は渋谷四郎左衛門重持の女。

寛永2年8月に家督、7歳。同4年8月27日に於いて、家久公の御前にて元服。御刀(安房)拝領。
同15年1月9日、100余人召し連れ、島原へ罷り立ち候。同20年、組頭。寛文2年8月、大目付。慶安4年、小根占地○{←:地頭?}。光久公の御妹聟。
延宝3年4月29日卒。享年57。桃外院洞巌素山居士。

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以下、二次史料より抜粋。

伴姓肝付氏は、薩摩国総追補使として入国した伴掾兼行の子孫で、島津一円庄に広く拡がり栄えた。肝付(その分派:救仁郷・検見崎・岸良・薬丸・津曲・野崎・河南・三俣・鹿屋・山下・頴娃・橋口)・萩原・安楽・和泉・梅北氏等がその一族。
戦国期、肝付兼続が島津氏に最後の抵抗を試みて滅ぶ(小番家)。支流肝付兼政(後の頴娃氏・一所持ちの同格)・加治木領主兼演あとの肝付氏(一所持ち喜入)が残った。頴娃氏は嫡男に久の字が許されたが、肝付氏の家字は兼である。
肝付兼続の後室・御南は忠良の娘。


●肝付新大夫兼俊
肝付の祖・兼貞の子。長元9年、肝付弁済使、肝付と号す。


●肝付八郎兼重 :周防守
肝属郡と日向三俣を併領。南朝に属し、尊氏・貞久に対立。延元4年、三俣高城落城。


●肝付河内守兼忠
応永18年、久豊に反す。嘉吉元年、大覚寺義昭誅殺者の一人。文明6年、肝付領主高山城主。忠昌国人。1484没。


●肝付主税助兼光
文明6年、救仁郷領主。忠昌御内。


●肝付大炊介兼恒
文明6年、庄内山田領主。忠昌御内。


●肝付周防守兼連
兼忠の子。文明13年、忠昌と盟書交換。


●肝付治部左衛門兼家
島津以久の臣。慶長15年、以久に殉死。
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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