FC2ブログ

龍造寺家兼_11【筑後乱れる中篇】

大内(陶尾張守)と大友+少弐が激突した1503年。

この年、後に鍋島家の縁戚となる石井党嫡男家に石井常延(彦鶴姫パパン)が産まれる。

1504年になると少弐家臣で豪勇で知られた高木鑑房が産まれ、
同年に竜造寺ガバイ母ちゃん・慶誾尼のダーリンとなる竜造寺周家も生まれる。

色々あって影が薄い周家だが、父は家純で祖父は家兼ジーちゃんです^^

さて少弐資元です。

彼は大友家の根回しの甲斐あって、足利義高(11代目将軍)から赦免され、資元と名乗った。(資元以前に何と名乗っていたかは、シオペディアでは不明)
さらに大友親治&義親の援助で大内に反旗を翻す。
出奔していた竜造寺胤家もドサクサに紛れて肥前に帰国

だが既に竜造寺の家督は、胤家の弟・家和が当主となっていた。

元当主・胤家は弟に迎え入れられ、大財津城に入る。

胤家は少弐・西千葉に加担した為に政治的失脚し出奔してたんです。

それを再び一城に迎えるということは、
竜造寺家は「大内+東千葉押し」から、再び元の「少弐+西千葉押し」に戻ったということです。

家紋・竜造寺(竜造寺家紋ロゴ)

大内サイドだった渋川尹繁は、少弐によって筑後へ追放され、江上興種は勢福寺城を追い出された。

少弐資元は江上の後の勢福寺城に入り、西千葉の胤繁は小城郡高田城へ入る。

このまま黙ってる大内じゃありません。大内は筑紫と東に「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.お前ら、やっておしまい」と命令。

1506年10月17日に筑紫満門と東尚盛が小城郡高田城を攻撃~アッサリ翌日に落城した^^;

いや、この高田城って水壕に囲まれた平城で防御力が弱かったそうなんです( ̄ω ̄A;アセアセ

で、千葉胤繁(西千葉の方)は密かに高田城を脱出し、竜造寺を頼った。

竜造寺家は長年、肥前千葉氏の被官だった。

東と西に分裂した肥前千葉だが、直系男子の血筋は絶えているものの、系統としての嫡流は西千葉です。

そのため竜造寺は、西千葉の縁戚である少弐に対しても、被官同然の状態になっている。

少弐が滅亡寸前になったことで、一時期は「大内+東千葉寄り」だった竜造寺家。

だが大友の後ろ立てで少弐が復活した以上、これを無視するわけにはいかない。

前当主・・・てか、ぶっちゃけ実兄で嫡男も舞い戻って来てるんで、ここで短慮は禁物。

少弐が生き残るか否かを、よくよく見極めて行動しなければならない。

少弐が滅んでは復活するから傍迷惑・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

大友が支配する土地に筑後があり、その筑後の国人に星野氏がいる。

1478年に肥後の菊池氏が筑後にチョッカイ出した事があるが、
星野氏は大友配下として仕えた。

だが大友家という家は国人に対し冷たい家だった。

戦になると、大友は危険な最前線に国人たちを追い使い、自分の旗本を温存するという事を露骨にする。

星野氏も大友の態度が腹に据えかね、ついに謀反を決意。

1507年(永正4)大友義長は星野氏の妙見城を攻撃するため1万余騎で筑後入りする。

大軍に囲まれた星野氏・・・風前の灯と思いきや、天下の大友軍が落とせない?!( ゚д゚)ンマッ!!

一連の争いは将軍家の耳に達し「もう止めよ!!」と言われるまでになるのだが、
それは・またの話 by^-^sio
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
839位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
130位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR