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龍造寺家兼_13【西国のドン・大内軍上洛す】

これは戦国ゲームの話ではない。
史実、あった話です。
ただし、1508年だけどね(^ -)---☆Wink

大内義興が上洛の決意をしたのは、前年に中央政界が大きく変化する出来事があったからです。

それは1507年6月23日、半将軍・細川政元が暗殺されたことです。

実は魔界に還っただけとか・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ちなみに大内義隆は、同じ年の11月15日産まれです^-^

とにかく細川政元に京都をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!された、10代目将軍・足利義尹が大内義興の力を借りて帰洛を決意。

1508年(永正5年)1月、足利義尹は大内の力を借りて帰洛しようとした。
情報をキャッチした九州の国人が我も我もと供を申し出る。


上洛参加メンバー一覧(出典元:北肥戦誌)
筑前~秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、
筑後~星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、
肥前~渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)・千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、
唐津の波多治・草野永信、平戸の松浦興信、高木の有馬尚監、彼杵の大村純治、
肥後~菊池義国・相良義滋、
薩摩の島津忠昌(名代は子の勝久)、
日向~伊東祐秀
豊後~大友一族、
豊前~城井長門、
対馬~宗義盛

まさに九州戦国武将一覧!
(果たして何人判るかな?貴方の戦国コア知識をお試し下さい(*´pq`)クスッ)

敵も味方も過去の遺恨もどこへやら~手に手を取って「イザ!京都へ((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~」


なんだかんだと準備に手間取り、足利義尹が出発したのは同年の5月下旬のことで、6月8日に京都へ到着した。

11代将軍・義澄は追い出されo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
足利義尹(10代目)は、足利義稙と改名しデジャヴュ10代目室町将軍として再登板する。

家紋・大内(花菱・大内家紋ロゴ)

大内義興の活躍は凄かったらしいのだが、九州から離れちゃうのでシオの守備範囲外~

てか同行してた九州の国人らが、いつまで大内義興に従って行動してたかのほうが知りたい^^;

1509年には竜造寺家に慶誾尼が誕生^^/

1510年3月13日、千葉胤治(肥前千葉13代で西千葉2代目)が小城高田城で討死。

詳細は不明だが西千葉と東千葉の抗争は、相変わらず続いており千葉胤治は東千葉勢に討たれたらしい。

さらに翌年の1511年には千葉胤繁(肥前千葉14代で西千葉3代目)が18歳の若さで死んでいる。

同年、竜造寺隆信の前半生のライバルとなる神代勝利が誕生。

当主が次々死に「もうダメポ」と思われた西千葉氏だが、
千葉胤勝(肥前千葉15代で西千葉4代目)で地味に勢力回復なぅ~だったらしい。

ぶっちゃけ大内が畿内で活躍中のため、北九州に手が回らなかったからだろう。

1513年3月15日、竜造寺家嫡男・新次郎が、千葉胤勝からの偏諱を受けて胤久と名乗る。

新次郎胤久(のちの17代目竜造寺当主)クンは、この時が元服でつね^-^

偏諱で与えた文字は、千葉家代々の通字「胤」です。

西千葉は竜造寺との関係を再び強化する事に腐心していたのでしょう。

それだけ竜造寺が力を付けてきたのだとも言えます。

家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋ロゴ)

西千葉と少弐は縁戚関係・・・というより実質=イコールの間柄です。

現当主・千葉胤勝は少弐一門・横岳氏からの養子です。

えっとちなみに大内の上洛で少弐代理で同行した横岳資誠の実弟にあたります。

西千葉と竜造寺の関係が強化されるという事は、少弐と竜造寺の関係が強化されるという事なのだが、
それは・またの話 by^-^sio

少弐が中々滅びないから飽き・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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