FC2ブログ

龍造寺家兼_14【太宰少弐】

大物は衰退してからの「余命」が意外と長い。

だが流石のゾンビ少弐も、ゆっくりとだが確実に滅びの時が(やっと)近づこうとしていた。

てことで肥前千葉も余命が長い・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

永正10年(1513年)は地方史的に誕生ラッシュの年でした。

煩雑さを避けるため紹介はしないが、北九州の覇権を巡ってガチンコになる大物たちの配下や家臣らが、
それぞれ「オギャァ」と産声を上げた(*´pq`)ププ

とりあえず大河に出る有名人だと、秀吉ママン・大政所が1513年生まれです^-^

この年の3月15日に竜造寺家次男(15代目家和の子)が西千葉の胤勝から偏諱を受けたのは前回紹介した。

4月に竜造寺胤家・盛家が東尚盛を攻撃。

繰り返すが少弐氏と西千葉氏はイコール=の関係です。

千葉胤勝は少弐一門の横岳氏からの養子です。

でもって竜造寺が攻撃した東尚盛も少弐一門でしたが、大内に寝返ってたんです。

そこで肥前千葉の被官である竜造寺(少弐の被官状態でもある)が攻撃~~となった。

家紋・竜造寺(竜造寺家紋ロゴ)

東を攻撃した竜造寺胤家は元・14代目当主でした。

少弐(と西千葉)が一時衰退した時に、少弐(と西千葉)に肩入れする胤家は政治的に失脚し亡命を余儀なくされたんです。

やがて何時もの如く少弐(と西千葉)が復活(`・ω・´)キリッ
てことで胤家が地元に戻った時には、既に家督は弟・家和のものになっており、家和当主路線で竜造寺内部は固まってたようです。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

少弐(と西千葉)が、このまま往時の栄華を取り戻す事が出来たなら、
再び胤家が当主として返り咲く事が出来たのか・・・今となっては(-ω-;)ウーン

とにかく元当主で本来の嫡流である胤家の、竜造寺における立ち位置は微妙だったように思います。

胤家と一緒に東を攻撃した盛家とは胤家の息子です。

が、系譜が少し変でして。( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ

竜造寺盛家⇒⇒家弘の子・胤家の養子

となってるんですが、その家弘と胤家って実は同一人物,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

竜造寺そのものが既に鍋島に吸収されてしまったので、系譜が混乱してるだけかも。

盛家は生年も没年も不明で、まぁ胤家筑前亡命時代に色々あったんだろうなぁって感じ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

で、肝心の攻撃ですが竜造寺胤家・盛家の勝利となったんですが、
5月に東にリベンジされちゃって、また戦前の状況に戻っちゃった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

一方、少弐の後ろ盾である大友家は義鑑(宗麟パパン)が義長から家督を譲られた。

一歩進んで二歩下がる的な少弐の御家再興だが、
なんてったって大内義興が京都へ上洛なぅ~で鬼の居ぬ間にセッセと勢力拡大。

少弐と連携組んでる西千葉家も佐賀郡へと勢力を広げはじめた。

1517年、少弐資元は室町幕府に働きかけて「太宰少弐」に任命される。
1521年、竜造寺胤久が今度は西千葉胤勝の推挙で「民部大輔」に任ぜられる。

ちなみに大内義興は1518年に帰国してた。

北九州では少弐がジワジワ復活しはじめ、領内は尼子が台頭、中央政界も思うように行かず不完全燃焼による帰国^^;

大内を頼って下向した公家たちが、大内内部における不和の遠因ともなる。

でもって1523年4月~大内義興がバックアップしていた12代目足利義稙が、将軍職を追われ復権することなく阿波で没する。

日の出の勢いだった大内の動きが鈍った今が少弐のチャンス。

1524年、少弐命の馬場頼周が行動を開始するのだが、それは・またの話 by^-^sio
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
839位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
130位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR