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龍造寺家兼_17【筑後、星野氏分裂】

1525年(大永5)、大友義鑑が田北親員を大将にして討伐軍を筑後に入れた。

筑後の国人衆が謀反を起こしたんです。

この争いの中で星野氏は一族が敵味方に分かれた。

大友サイドの星野親忠は黒木氏、上妻氏らと先陣を賜った。

激戦の結果、草野・溝口・川崎氏らは降伏し、謀反側の星野正実は豊前に逃れて大内義興を頼った。

大友氏では断続的に筑後・・・特に星野氏の謀反に手こずっていたようだ。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

1518年に亡くなった大友義長は「警戒すべき一族」として、
星野氏、阿蘇氏、相良氏、大友分家の田原氏を挙げている。

特に星野に関して義長は遺言で「星野九郎(重泰)の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」と書いたそうだ。

九郎の兄弟子孫とは大内義興を頼った星野正実のことかもしれない。

とはいえ実は七回葬儀伝説の星野伯耆守重泰は、系図上では実在しない人物なんです。

ひょっとして星野伯耆守重泰は、大友に反旗を翻した複数の星野一族が一人の人物として伝わったのでは?などと妄想炸裂してます(*´pq`)クスッ

さて史実の星野正実を迎え入れた大内義興は、その後、豊前田川郡位登(糸)庄を正実に与えた。

位登(糸)庄はもともと星野氏の領地であったところで、義興はゆかりの地を正実に与えたらしい。

こうして星野氏は筑後と豊前に分裂し、豊前田川郡の星野氏は「糸の星野氏」と呼ばれ、
生葉郡の星野氏は「筑後の星野氏」と呼ばれた。

豊前「糸の星野氏」は大内から毛利配下となり、九州の役を生き残り小早川隆景配下となった。

だが御存知の通り、小早川家は関ヶ原の後で。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

その後の「糸の星野氏」がどうなったかは、シオペディアでは辿れませんでしたil||li _| ̄|○ il||l

家紋・大内(大内花菱ロゴ)

長々と星野氏を語ってますが、筑後の情勢は後に隆盛となる竜造寺家と密接な関係があるんです。

竜造寺と少弐氏の関係を語るには、まず「肥前千葉氏」を知らなければならず、
肥前戦国史を語るには、隣接する筑後と筑前の郷土史が、どうしても必要になるんです^^;

初めに肥前から入っても、結局は筑後と筑前を調べる羽目になるでしょうな( ゚Д゚)y─┛~~

1528年(享禄元年)、15代目当主・竜造寺家和が死亡。

息子・胤和が16代目当主となる。

少弐氏がリベンジのために再び動き出した年で、複雑な情勢のさなかに死んだ家和は、さぞ心残りだっただろう。

竜造寺家が新当主を迎えた年、大内家も義隆が22歳で当主となるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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