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龍造寺家兼_18【少弐が】田手畷の戦い・前篇【主役?】

鍋島さまが颯爽登場する「田手畷の戦い」の発端は、例によって少弐のリベンジだった。

この戦いは鍋島さまの、いわば社交界?デヴューみたいなもので、
竜造寺はもちろん石井家(直茂正室の実家)とも繋がる重要な分岐点。

そのせいか、そもそもの発端である少弐のことは、忘れられがち^^;

骨子が端折られるているか、書いてあっても少弐の事は読む人の脳内に残ってない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことで、シオがまた~り語りたいと思います(*´pq`)クスッ

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

少弐資元は1517年(永正14)に太宰少弐に任官したものの、
大内のために本貫地である大宰府に戻ることは叶わず、藤津の山中に蟄居していた。

資元に従うのは宗一族庶流、氏茂のみ。

1528年になると少弐は室町幕府管領・細川高国を頼み、
嫡男の松法師丸を元服させると興信(のちの冬尚)と名乗らせ、
更に「太宰少弐」として屋形号を与え勢福寺城へ入れると、馬場と江上を息子の後見とした。

屋形号は国主に許される尊称で、(本来は)自称することは出来ず幕府の承認がいる。

守護職ではないが、それに準ずるということなのだろう。

ちなみに、この年に細川高国は失脚し近江に亡命しちゃうので、
少弐の(-人-)☆彡オネガイはギリギリセーフな時期・・・年頭~春にかけての事になる。


息子の後事を馬場らに託した少弐資元は、上松浦へ兵を進める。

獅子・日割の両城他、松浦党を従えると、本貫地である大宰府を取り戻すべく、西筑前へと出陣。

事態を知った大内義興 Σ(´Д`;) 、直ちに少弐退治を将軍・足利義晴に願い出るが、此度は許可が下りなかった。

中央政界が混乱してたのもあると思うが、義晴が大内義興に良い印象が無かったのかもしれない。

家紋・大内(大内花菱)

足利義晴は、大内義興が上洛した時に奉じた足利義尹を将軍に復職させるためにo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
っと追い出された足利義澄の子だったからです( ̄ω ̄A;アセアセ

だから大内義興の(-人-)☆彡オネガイに、すぐOKしないで意地悪したかも^^b
(大内の力は大きいので本気で敵対する気は無いと思う)

ちなみに足利義晴は、剣豪将軍・義輝と最期の将軍・義昭のパパンです^-^

同年の8月28日に大永から享禄へ改元。

15代目竜造寺家和が死んで、息子・胤和が家督を継いだのは前回書いた。

同年12月20日、大内義興が54歳で卒去。
22歳の大内義隆が家督を継ぎ、7か国(周防・長門・石見・豊前・筑後・備後・安芸)守護となる(=^・ω・^=)v ブイ

後年の姿からは想像出来ないほど英気溌剌だった、若き大内義隆。

彼は当主になると早速に「少弐退治」を将軍に願い出て、許可を頻りに催促する。

1年間・催促し続け、ついに1530年に将軍家から許可キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

鍋島勢・赤熊武者デヴューの「田手畷の戦い」が始まろうとしていたのだが、
それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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