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【北肥戦誌・1589年】天草国人一揆2

10月下旬、隈本城に居た加藤清正は、志岐城の堅固さに行長が和平に及ぼうとしていると聞き、ならば自ら馳せ参じて打ち崩すべしと、手勢10,000余騎を率いて同月29日に志岐浦へ船を着ける。
そして麟泉へ、「主計頭(清正)が、和談を調えんが為こちらへ着船します」と使いを以って伝えると、麟泉は家臣10余人と海辺へ出迎える。
すると清正は志岐の湊へ着くなり鉄砲を放ってその内の14人を打ち倒し、城へ向って禿山へ陣を布き、斎藤伊豆守らに1,500を与えて小西勢へ加勢させた。
これが本渡城へ伝わると、天草種元は志岐勢の後詰として、天草主水助に700を与えて差し向ける。
主水は甲浦から比々尾へ陣を布いて小西勢と退陣する。
また、本渡城に木山弾正という無双の剛の者がいたが、これも志岐を救うべく弓・鉄砲の500人を率いて、禿山の上の山に陣を取り、加藤勢と相対した。

11月初旬、天草主水・木山弾正は話合いの上で麟泉へ、明朝一斉に切って出て、三方より押し包んで加藤・小西を討ち取るよう伝える。
だが、城内の者の中に小西との和平を望む者もおり軍議が纏まらず、麟泉は返答できなかった。
天草主水は憤慨し、ならば我らは本渡へ帰城すると言い捨て、その翌日に陣を引き払った。
一方の木山弾正は、勝負を極めなければ二度と本渡へは帰らないと誓っていた為、敢えて引かず陣所へ留まった。
清正は行長へ遣いを出し、「木山は我らと一戦交える心算に見える。我らは明朝彼らの陣を切り崩す。御辺は志岐城を堅固に囲んで戦の動向を見られよ」と伝えると、夜のうちに木山の陣の上へ旗指物を隠しながら登ると、その夜は静まり返って合図を待った。

11月5日の黎明、加藤善右衛門の一番備え3,000が敵陣と谷を隔てて合図を待っていた処、善右衛門の家臣・伊東次右衛門という者がただ一人、槍を掲げて抜け駆けすべく進み出る。
清正は本陣からこれを見、「誰だ、無指図に槍を振るうのは! あやつを止めよ!」と使者を出して留めたが、既に山の六七分を登っており、あっという間に敵方より徒歩立ちの者3名が刀を抜いて切り掛かった。
次右衛門はしばし槍で支えたが、更に二三十人の敵が現れ、次右衛門を取り囲み討ち取った。
先手3,000がこれに堪え切れず進み出ると、敵は勝ちに乗り坂落としに襲い来る。
先手は軍令に背いての進軍である為、坂の途中で突き立てられて清正の旗本勢へ崩れかかる。
清正は床几に座してこれを見ると歯噛みして、「どこまで逃げる心算か。返せ返せ!」と下知したが、悉く討ち負け左右の谷へ落とされた。
清正の旗本勢はそれでも退かず、馬印を立てたまま留まっていた所へ、木山勢20人ほどが一群を為して襲ってくる。
これに清正自ら槍を掴んで、敵二人を討ち取ると、再び床几へ座った。
旗本衆もこれらを討ち取り敵を退かせたが、木山弾正が槍を掲げ20人程を連れて現れる。
木山は「足元に居るのは加藤主計頭(清正)と見える。我と一遣り合わせ、大将と大将の勝負を仕らん」と駆け寄った。
清正は眼を見開いて、十文字槍を掴んでこれに応じ、槍を突き入れ弾正の高股を突き通した。
後に続く木山家臣が駆け寄るが、清正が再び突き伏せると、清正側にあった浪人・阿波鳴門という者が木山の首を取る。
が、その阿波も流れ矢に当たり死んだ。
木山家臣は清正を逃がすまいと一斉に切り掛かったが、旗本衆に悉く突き崩され、大将を失った木山勢は敗走した。
合戦は辰の刻に始まり、午の刻に終わる。
清正方が討ち取った首級460余、味方の戦死は士分11人・雑兵279人であった。
清正はこれら首級を海辺に並べたが、このとき一揆勢が清正の乗船を奪おうとするのを、加勢の龍造寺勢が追い払った。
志岐麟泉は尚も籠城を続けたが、先達て関白へ島津義弘が「麟泉は中務大輔の婿にて(『本藩人物誌』では、島津義虎の娘の婿が麟泉の次男(養嗣子とも)・親重)、某にとっても縁者に候。願わくば御赦免を賜り、さすればすぐさま下城させます」が求めて許された為、麟泉は11月10日に《有馬修理大夫政純》を頼って下城、行長へ城を明け渡した。

本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、麟泉は出水へ逃れ、養嗣子の親重は有馬晴純の実子なので有馬へ戻った後、加藤清正へ仕えた。が、加藤家改易に伴い、親重の子・親昌は母方の縁を頼り島津家臣となったとある)

11月20日、清正と行長は本渡城を討つべく、有馬・大村・平戸・五島を合わせた25,000余人で向かった。
21日より竹束で仕寄りを形成しつつ、夜毎に少しずつ攻め近付き、24日から鉄砲を撃ち掛ける。
その日の未の刻、天草種元とその子・太郎次郎は、数百人を率いて城から打って出、激しく戦った後に敗退する事無く城へ戻った。
だが翌25日に寄せ手が城内へ入り、二の丸を奪った。城兵700余人が討ち死に、種元は矢倉へ上がって妻子を斬り殺すと、自身も切腹して果てた。
これに譜代の家臣21人が後を追って切腹、残りは悉く逃げ散った。
清正勢にも570余人の戦死者が出、他の小西や有馬らの勢も討ち死にが多かった。

(本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、大矢野・栖本・上津浦も天草に続いて降伏、その四氏は領地を召し上げられ、小西の家臣に組み入れられたとし、その後に行長は、同じ豪商出身で切支丹の家臣「ビンセンゾ・兵右衛門」を志岐に置き、本渡や上津浦にも切支丹武士を配置。この翌年、上津浦氏も信者となり3,500人が領主に続いて洗礼を受けたとしている。)
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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