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龍造寺家兼_25【激突Ⅱ大友VS大内・勢場ヶ原の合戦①】

1533年「北肥戦誌」曰く、この年10月8日の暁、萬星半天に流動し、悉く海陸に落ちる。

落ちた星は少弐か、はたまた肥後・菊池か・・・

blog_import_5042c7bb98c81.jpeg(少弐家紋)

「九州三人衆」・・・鎌倉時代、幕府は九州を三つに分けて、三家に丸投げ治めさせた。
九州は遠国、ということで三家には一般の守護職を超えた権限(地頭・御家人の訴状処理)を与えられる。

その三家とは、
島津氏・・・支配地域は三奥と呼ばれた、薩摩・大隅・日向の三州。
大友氏・・・支配地域は三後と呼ばれた、豊後・肥後・筑後の三州。
少弐氏・・・支配地域は三前と呼ばれた、豊前・筑前・肥前の三州+対馬、壱岐の二島。

これが、いわゆる鎌倉以来の祖法というものなのだろう。
この三家は紆余曲折を経つつも、戦国期に入ってなお、影響力を持っていた。
(ちなみに前・後・奥は、京都から見た距離感~奥ってどんだけ遠国と思われてたんだwww)

そのうちの一角、三前(筑前・肥前・豊前)に数代かけて食い込んできたのが、中国地方のドン大内。

ゾンビ不死鳥の如く何度も御家再興を繰り返して来た少弐氏だが、さすがに回復力に陰りが見え始める。

筑前、豊前の守護職は大内のものとなり、本貫地・大宰府をも奪われた。

少弐は、残された肥前で何とか命脈を保っている状態でした。

その「少弐を援ける」という名目で、三前に介入してきたのが、キングオブ豊後・大友です。

家紋・大友(大友家紋)

むろん慈善事業ではなく、大友も三前に色気を出して来たんです。

大内にとって、少弐もシツコイが、それを支援する大友もUZA!

さらに大友は、少弐に援軍を出すだけに留まらす、ついには豊前、豊後の国境を侵し始める。

もはや大友の動きも看過する事は出来ない。

大内義隆は「大友と雌雄を決すべし」と決断した。

だが、まともに大友とガチンコになったら、大内の方も満身創痍になりかねず、ヘタすれば共倒れになる。

そこで大内義隆は、大友義鑑が大嫌いな実弟・菊池義宗とタッグを組んだ。ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

家紋・大内(大内花菱)

大友義鑑の実弟・菊池義宗は、大友の御膳立てで菊池家の家督と肥後守護職の地位を手に入れた。

だが義宗は、大友の傀儡当主でいることに飽き足りず、自立と同時に大友支配の筑後を欲した。

筑後で大友に対し謀反が起きると、それに加担。ついには義宗自身も挙兵する。

この挙兵は大内と事前に打ち合わせ済みだったようだ。


大内義隆は1532年~1533年にかけて、陶興房を派遣し三前の諸城を攻略させている。
(建て前は大友に謀反を起こした筑後勢への援軍)

破竹の勢いの陶勢~絶好調で肥前で年越しカウントダウンだったのだが、
1534年新年早々に大内義隆に周防に呼び戻されている。

同年1月から菊池義宗が行動開始(詳細は野望の同盟・相良氏、戦国名君編6

大友義鑑は鎮圧のために主力本軍を派兵した。

大友軍と菊池勢が激突する直前の春、陶興房が兵3000で出陣!目指すは大友の本拠地豊後!

三前・・・北九州の覇権を巡り大内と大友が激突するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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