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龍造寺家兼_27【総大将討死!・勢場ヶ原の合戦3】

陶軍の目的がイマイチ判らない。

大友の首都・府内を制圧するつもりなら、3000じゃ少ないよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

むしろ陶軍を迎え撃つために出撃するであろう「大友軍に勝つこと」そのものが目的だったかもです。

本国の豊後を脅かされて戦に負けでもしたら、大友のブランド価値はマッハで下落する。

現在進行形で肥後と筑後が謀反なぅ~この状況で本国の大友が敗退する事態になれば、
それまで大友サイドだった国人たちが雪崩を打って大内に乗り換える。

国人が寝返り始めれば陶軍の3000は、あっという間に2倍3倍に膨れ上がり兵が余るほどになるだろう。

北九州各地の諸城を落として来た陶興房には、その状況が実感として想像出来たのではないだろうか。

家紋・大内(大内花菱)

一方、陶軍目指して一直線まっしぐら~の大村山本陣の大友軍。

この場合、非常に拙いのは総大将・吉弘氏直が先頭集団の中にいたことです( ̄ω ̄A;アセアセ

強引に中央突破を試みた吉弘だが、関ヶ原の島津で分るように敵中央突破は成功率・生還率が極めて低い。

陶軍の奇襲作戦にしてやられた事に、完全に血が上った19歳初陣の総大将・吉弘クン。

副将・寒田の制止も聞かずに「皆!我に続け~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~」と、
撤退する奇襲部隊を追いかけて、真っ先に山を馬で駆け下りたんです。

これで敵が陶でなく島津なら「釣り野伏せを仕掛けられた」と言われる所でしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

戦国時代にプロフィール画像はない。陶軍も、まさか総大将自ら出張るとは思ってなかっただろう。

ちなみに日本の戦闘単位では「騎馬武者⇒⇒隊の指揮官」です。

吉弘を視認した陶軍は「ヤケに目立つ装束の騎馬武者だが、先鋒大将の一人だな」とでも思ったか。

とにかく陶軍は吉弘を狙い、一斉に矢を放った。
(補足の囁き( ̄ko ̄)<この頃は未だ鉄砲が日本に入って来てないでつ)

吉弘は馬上、降り注ぐ矢を刀で薙ぎ払っていたが、
吉弘を「手ごわい」と感じた陶の弓隊が、的の標的を吉弘を乗せる馬に替えた。

無数の矢に射られて馬が倒れて吉弘も落馬。

参照サイト豊後の城と合戦によると、
落馬した吉弘は「馬を狙うとは卑怯なり!我は総大将・吉弘氏直だぁ~尋常に勝負(以下略)」
てな事を叫んだそうだが(出典元記載無し)それが史実なら、吉弘は真正の脳筋だろう。

再び陶の弓隊の放った矢が、吉弘の身体に雨の如く降り注ぎ、吉弘は無残にもハリネズミのようになった。

陶興房を相手に同格で戦うには、吉弘氏直は余りにも若く経験値が少なすぎた。

大友軍、総大将・吉弘氏直が初陣で討死・・・享年19歳。

家紋・大友(大友家紋)

ちなみに吉弘の嫡男が、後に豊後三老の一人として大友家に貢献した吉弘鑑理です。

ところが鑑理の生年を見るとウィキペディアでは【生誕 永正16年(1519年)?】となってるんです。

パパン氏直が1534年で19歳討死-嫡男・鑑理の生年が1519年=数え5歳で一児の父ヽ(。_゜)ノ へっ?

ワールドレコード更新・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

どっちの記録が間違ってるのか不明ですが、戦国時代の19歳なら子供がいても不思議じゃないので、
吉弘鑑理の生年の方が記載・伝承ミスかもしれません。

でもって吉弘を守ろうとした従者も、陶の弓隊の餌食となってハリネズミ・・・(-人-)☆彡

副将・寒田は「怯むな!総大将の首を敵に渡してはならぬ!!」

と、必死で混乱する大友軍をまとめつつ、自らも槍を振るって戦う。

だが獅子奮迅の働きも虚しく、寒田も陶勢に討たれてしまう。

総大将と副将の討死に大友本陣は壊滅状態!!!
だが戦は、これで終わりじゃない!立石峠と地蔵峠にいた大友勢は未だ無傷だ!!

残る大友軍の反撃「弔い合戦」が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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