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龍造寺家兼_28【弔い合戦!・勢場ヶ原の合戦4】

1534年4月6日、未明から始まった戦は総大将・吉弘氏直と副将・寒田の討死、、、
という大友側の敗色濃厚でスタートした。

普通ならここで負けちゃうのだが、
そこへ地蔵峠と立石峠を守っていた大友軍1800が援軍に駆けつけた。

が時すでに遅しで、総大将と副将は討死した後。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

援軍を指揮する田北鑑生(たきた・あきなり)は、大将討死でパニくり壊滅状態だった本陣の兵らを収容。

そのまま田北は撤退せずに、総大将&副将の弔い合戦とばかりに、陶軍に猛攻撃をかけた。

家紋・大友(大友家紋)

大友軍の鬼気迫る反撃に押され、陶軍は勢場ヶ原まで引いて体制を立て直し応戦。

もともと大友軍は地元出身の兵ばかりだった。

田北は地の利を生かし、陶勢を奇襲・急襲と翻弄した。

陶勢は大友の総大将を討った事で「戦は勝った・終わった・ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ」
てことで浮かれて緊張が解れてしまってた為に、田北らの攻撃に対応しきれず遂に崩れて大敗。

今度は陶軍の副将・杉長門が討死。さらに陶興房も負傷してしまう。

結果として死者は、大友軍283名、陶軍358名と、
陶側の方が戦死者が多いという事になってしまった( ゚д゚)ンマッ!!

総大将の陶が負傷ってことは、陶の方も本陣まで肉薄され接近戦となって崩されたって事です。

これじゃ、どっちが勝ったんだか判らない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

陶興房は敗軍の兵をまとめると、寄藻川(宇佐市)沿いに豊後高田方面へと退却し、海路周防に撤退した。

駐屯してる大宰府じゃなくて、お家(周防)へ直行するところが凄い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

おそらく万が一の大友軍の追撃を警戒したんだと思います。

大友は肥後と筑後の(大内と連携した菊池義宗が起こした)謀反鎮圧で主力軍が遠征しちゃってるので、
陶を追撃する余力は無いはずなんですが、それでも周防に引き上げた方が安心安全ですからネ^^b

この後、大友と大内の本格ガチンコはないですが、
大内義隆が謀反で討たれるまでは北九州の覇権は、ほぼ大内の手中にありました。

大友義鑑の北九州への野望は頓挫したとも言えます。

家紋・大内(大内花菱)

で、この一大決戦の時に少弐が何をしていたかと言いますと。

少弐は原田隆種と戦ってました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

( ̄ko ̄)<日にちも同じ4月6日でつ。。。

原田隆種・・・後の了栄~大蔵系氏族嫡流よん~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

隆の字は大内義隆からの偏諱~つまり大内サイドの国人^^/

原田さんは陶興房の命令で少弐と戦ってましたが、戦の勝敗は判りません^^;

陶興房は自分が留守してる間に、少弐に大宰府を奪還されたりしないようにと、原田を使って牽制してたんです。 

振り返れば、この時が大宰府奪還の最後のチャンスでしたが、
たとえ奪還できたとしても少弐に維持する力は残ってなかったでしょう。

今の少弐はオセロに例えるならば、大内と陶に盤面の四隅を取られてる状態だからです。

さて負傷した陶ですが、怪我の治癒もそこそこに再び北九州へと出陣します。

次回「家兼ジーちゃんと陶興房の激突!」それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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