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龍造寺家兼_29【陶興房・龍造寺に無勝 il||li _| ̄|○ il||l】

タイトルに泣ける(´;ω;`)ウッ

1534年が長いが、当事者にとっても暑く長い一年だっただろう。

4月6日に豊前で激突した大友&大内。

大友は総大将・副将を失いつつも、陶興房をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと何とか撃退した。

負傷した陶興房は一度周防に退却したのだが、
5月に入り再び肥前へ出陣すると、神埼郡三津山に陣を布いた。

5月16日、龍造寺家兼の居城・水ヶ江城を攻撃するが城側が死守し、大内勢は三津山本陣へと引き上げた。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

7月13日には有馬晴純の軍勢が少弐の留守を狙い多久城を攻撃、こちらも城番・龍造寺盛家が死守する。


( ゚д゚)ンマッ!!「有馬ですって~~~」

アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ こっちは大内、大友どっちも無関係~別の動きですっ!!!

(*´○`)o¶~~♪「西から興った有馬さん、東ぃ~を攻めるぅ~♪」(ベースメロディ:バカ●ンのテーマ)
「それでいいのだぁ♪」・・・(._+ )☆\(-.-メ)イイワケネーダロ!!

島原半島高来郡を中心に貿易による利益を背景に勢力拡大。最盛期当主は、この有馬晴純です^-^

肥前が少弐だ~千葉の東だ西だ~竜造寺だ~~と大内とグダグダしてる間に「新たな敵」出現!!

この有馬氏による肥前侵攻が、龍造寺と東西千葉さらには鍋島直茂の運命にも影響する。

ちなみに龍造寺伯耆守盛家は、元14代目当主・胤家の養子です^^/


有馬勢が引き上げてホッとしたのも束の間で、次は自然の猛威が肥前を襲った。

翌日14日の夕方から俄かに風が吹き出し、翌15日の朝には大雨となった。

南の海から大潮となり、それが風に煽られ高波となると、
須古・白石・佐嘉・神埼の村々を洪水が襲う。災害の死者は一万余。


この様子を見ていた龍造寺家兼は息子・家門へ言った。
「この大風と大雨で、三津山の陣に居る者達(大内・陶軍)は合戦の事など考えられぬだろう。ならば今夜、風雨に紛れて敵陣を夜襲し、陶を討ち取るべし(`・ω・´)キリッ」
家門も父の意見に賛成し龍造寺勢「夜襲決行!!」

家紋・大内(大内花菱)

その頃、陶の陣中では、佐嘉・神埼の民家が浸水している様を遠く見ながら、
「龍造寺の者達が自滅する」と笑いながら酒宴に興じていた。

( ̄ko ̄)<人様の不幸を酒の肴にしたのでバチが中ったのでつかね・・・

そこへ龍造寺勢300余が鬨の声を上げて押し寄せた為、完全に油断してた陶勢はビックリ仰天!!

矢兵具を放り出し、我先にと逃げ出した。

龍造寺勢は更に敵を追い崩し、千余の首級を得て勝ち鬨を上げた。


破竹の勢いで北九州を攻略している陶興房なのだが、
どうも龍造寺が相手だと勝負運が無いようです( ̄ω ̄A;アセアセ

陶興房「田手畷では赤熊に襲われ、今回は夜襲くらいました(´;ω;`)ウッ」

水が引くように戦も治まれば万々歳なのだが、戦国時代~そうは問屋が卸さない。

敗戦に激怒した大内義隆が、自ら兵を率いて出陣~その数、兵3万余!
それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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