FC2ブログ

龍造寺家兼_35【自刃・少弐へチェックメイト~後篇】

1536年、ついに大内義隆は念願だった官位・太宰大弐をゲッツ
現代ならパワハラで訴えられるが、戦国時代なら平常運転~
力ある上司(太宰大弐⇒大内)が、不都合な部下(太宰少弐⇒少弐)を滅するのに遠慮はいらない

秋に入り、陶興房は千葉興常(東千葉)と示し合わせ、少弐資元を討つべく筑前を発って多久へ派兵する。
(陶興房は大宰府に駐屯してます)

それを聞き知った塚崎の後藤、上松浦の波多・草野が大内勢に加勢。
9月初旬に大挙して攻め込んだ。

実は、この9月の派兵なのだが『龍造寺記』・『隆信公御年譜』には記述がないそうなんです。
『歴代鎮西志』では「梶峯城主・多久宗時、自殺を勧む」とあります。
多久宗時は少弐に被官してて、大内に攻められた先代・少弐政資に自害を勧めた人物です。
ネタバレになるが少弐資元が死んだのは父・政資と同じ城の同じ寺なんです。
政資と混同されてるのか、ほんとに多久が自害を勧めたのか不明です。
(シオは多久が自殺勧めた説押し=多久が大内に寝返った説)
大穴が『肥陽軍記』の病死,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
この記事は北肥戦誌がベースですので、このまま大内勢の9月派兵で話を勧めます^-^


少弐資元は僅かな供廻りだけであったため防戦しようもない。

「もはや、これまで」と思い、9月4日に密かに専称寺に入ると、譜代家臣の今泉朝覚、窪、平原の三人を呼び出した。

少弐「我ら智慮なくして一昨年敵を恐れて城原の居城を去って後、付き従う者らにも見捨てられ、勢いは微々と成り果て此処に来た。
このような是非無き害に合う事は、世の宿業ながら口惜しき次第である。然れども悔いても益無し。
唯々自害を急ぐべし。さても汝ら三人は多くの家人の中で今まで心を違えず付き従い嬉しい事である。
必ず黄泉に入っても忘れはしない。この期に及び、(汝らは)死を共にしようと思うだろう。
だが子息・冬尚は蓮池に忍んで居り、その他、幼稚の子供は佐嘉の傍に隠し置いている。
汝ら三人はこの場を逃れ、彼所へ赴き子供を撫育させよ」


主君の言葉を聞くと、今泉は涙ながらに、
「御運既に傾き、この期に及んでは悔いても仕方ありません。
そんな中、我らに落ちよと申されますが、御父・政資公御生害のとき公は九歳になられ、横岳の元に忍んで御成長された。
その後、藤津へ御蟄居のときは、某が父・宗春入道と宗伊賀守ばかりが付き従いました。
その身、不肖ながらも、その子としてその最期を見捨てて、何処へ逃げて誰を頼めと申されますか。
皆、死出の御供こそ望んでおります~・゜・(PД`q。)・゜・」と述べる。


左右を見れば、窪・平原も共に涙に咽び、「我々も同意に候m(__)m」と頭を垂れていた。

資元は重ねて申すに
「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.<死は近くして易く、生は遠くして難し。幼稚が者共の事こそ心許ない。曲げて命を全うし、彼等を養育させよ。さもなくば七生までの勘当である!!」


と資元が立腹すれば、三人は主命に背く訳にいかず、涙ながらに退出した。

隔して資元は心安く思われ、専称寺の仏前に鎧脱ぎ捨て、もろ肌脱ぎ、生年48にして腹を十文字に掻き破り、桐葉落ちる夕凪の9月4日、その一生は夢となられた。法名:心月本了と申すは、この資元の事なり。

今泉・窪・平原は、泣く泣く佐嘉へ赴き、亡き君主の幼子達を或る寺へ忍ばせ、住持を頼み年月を重ねた。

特に三人の中でも今泉は、発心して髷を切り、66箇所を巡礼し、
後に上洛して竹苑椒房・摂家・清華の方を頼ったそうだ。
(これは再び少弐家を興す為の縁を求めての行為だった)

陶興房は九州支配の後始末を終えると、10月29日に周防へと帰国しました。

北肥戦誌では大内が太宰大弐になったのは、このあとって流れになってます。
( ̄ko ̄)<西国を安んじた功ですって)

ウィキペディアでは太宰大弐になったことで、少弐退治の大義名分を得たってことになってます。

いずれにせよ大内義隆が少弐退治するにあたり、諸々への大勢作りは終わってたでしょう。

家紋・大内(大内花菱)

筑後の蓮池城主・小田覚泒(資光)は少弐再興を企図して、自らの城に冬尚を隠した。

少弐が滅び肥前が完全に大内の制圧下に入れば、今度は筑後が「大内VS大友」の最前線になる。

少弐には残って踏ん張ってもらわないとネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

資元死去を知った大友義鑑は後悔し、資元の嫡子・冬尚を世に出すべしと、龍造寺氏の嫡流・胤久と談合に及ぶ。

胤久は村中龍造寺の当主でしたが、少弐に直接被官した水ケ江龍造寺家兼に遠慮し、
自ら出家し総領職を家兼に譲ってました。

家督の機微まで大友が知らなかったとしても、龍造寺の実権が家兼にある事ぐらいは、すぐ調べがつくはずです。

そこをあえて龍造寺胤久に接触したことに、大友の意図を感じる。

実はシオは龍造寺家兼は「大内に寝返ってた」と推測しており、
それは、資元の自刃後・・・大友が前当主に接触した頃からではないかと考えているのだが、
それは・またの話 by^-^sio
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
563位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
103位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR