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【最後の当主・少弐冬尚】龍造寺、破の巻8

読みは「ふゆひさ」なんですが、冬・・・
とつくと、佐野史郎さん演じた「冬彦キャラ」が脳裏をチラつく・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

彼の評価は生年をいつにするかで、評価が変化するのではないだろうか。

ウィキペディア公式発表によると、冬尚の生年は1529年で、1536年現在は7歳という勘定になる。

僅か7歳なら、小田資光が暴走して「家兼は裏切り者~」と攻撃するのは止められないだろう。

と、好意的に見れるのだが、冬尚が7歳だと色々と矛盾してくるんです。



冬尚の生年には異説として1510年説があり、それだと現在は27歳。

シオも1510年説を支持しています。

本記事ベースの北肥戦誌には、1528年に冬尚が家督を継いで「太宰少弐」になった~とあります。

武家の子弟は大体二十歳頃に家督を継ぐ(実権はパパ)ので、
1510年生年説だと数え19歳なんで不自然じゃないです。

冬尚の弟・元盛は、自害した資元が譜代家臣に預け、家臣が何処ぞの寺に預けたんですが、
最終的に一門の横岳資誠が引き取り養育しました。

横岳資誠は、田手畷の時(1530年)に既に成人してて現役出陣(=^・ω・^=)v ブイ

その横岳が少弐冬尚の娘を妻としているんです( ̄ω ̄A;アセアセ

1529年説だと冬尚娘と横岳が、凄い「年の差婚」になるが、
1510年説だと冬尚に子供がいても不自然じゃないし、姫も適齢期に近い年齢なんで、矛盾解消^^b

家紋・少弐(少弐家紋)

少弐冬尚が龍造寺家兼を排除しようとした裏には、
エキセントリック忠義「馬場頼周による讒言」が定説です。

が、前記事にあるように蓮池の小田資光も「( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<家兼は裏切り者~~」と主張してました。

家兼の仲介で少弐と大内が和睦した時も、小田は大反対・主戦論だったんです。

肥前に土着して未だ100年ちょいの肥前小田氏には、
己の勢力維持・拡大のために、少弐にかこつけた大義名分が必要だったのでしょう。

小田と馬場が二人がかりで、
「お父上・資元様の自害は、家兼のせいです。」
「家兼の勧めで勢福寺城を出たから、、、陶勢に囲まれてあのような仕儀に・・・(´;ω;`)ウゥ~~」
てな感じで冬尚にせっせと吹き込んだ。

少弐がピンチになると、毎度のように親子二手に別れて逃げるのは何度か触れた。

冬尚が逃げるのが小田の蓮池城です。

蓮池城は平城だが川を上手く利用して、なかなか攻めづらい城だったようです。

とはいえ少弐の御曹司を匿うハイリスクを引き受けるのだから、
小田の少弐への入れ込みようが判ると言うものだ。

肥前で「少弐被官」というのは余程のステータスだったのだろう。

冬尚にとって、少年期⇒青年期にかけてピンチの自分を匿ってくれた小田家は、
心情的に龍造寺家兼より遥かに信を置いていたのではないだろうか。

おそらく5代目資光(隠居)や6代目政光(当代)が、冬尚の無聊の話し相手をセッセと勤めていたに違いない。

先物買いですな ( ゚Д゚)y─┛~~

冬尚様の御代に、少弐が御家再興すれば、ワシらの時代が来るのネー(*´・д・)(・д・`*)ネーby小田親子

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

その小田家だが、龍造寺と同程度の勢力があったらしい。
少弐と被官が行った、寺への寄進で名前の順番から、そう推測されている。

龍造寺家兼が小田家を「どう思っていたか」は不明だが、
小田資光&政光親子は「龍造寺はライバル」と思っていたのだはないだろうか。

少弐冬尚は名門当主らしく「龍造寺と小田」を天秤にかけていたのだろう。

どちらが自分に忠で利する者か、小田の龍造寺への対抗意識を煽る事もあったかもしれない。

龍造寺家兼の思考・発想は典型的国人で、えぇもう~骨の髄から国人っす( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺の「少弐への忠義」は、自分の方に見返りがあるからで、
少弐の為に自己犠牲をするようなM気質、(少弐から見て)純粋なものじゃないんです。

それが国人だから、それで正解なんですが、
少弐冬尚にしてみれば龍造寺を何処まで信用していいか測り兼ねたと思います。
(途中から肥前に土着した小田の方が、少弐ブランドを必要としているんだな~と、判りやすい)

ましてや龍造寺家兼は分家(水ケ江)当主の身で、宗家(村中)を凌いだ男。
世間では、とっくに墓に入ってる年齢で宗家を超えちゃうんですよ。
ハッキリ言って「冬尚:あのジジィ何を企んでやがる」状態です(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

冬尚の龍造寺に対するブレは、国人そのものへの不信感から来るものでしょう。

これは、どうしようもないです。
国人は己と一門の繁栄・生き残りが最大課題の最優先で、ソレ以上もソレ以下もない。

少弐冬尚が戦国大名である為には、そういう国人の欲望と恐怖を刺激して、
自分に都合良いように上手くコントロールする力量が求められるんです。

小田の龍造寺攻撃以来、少弐と龍造寺の関係がギクシャクしたまま一年過ぎた。

1538年2月、龍造寺家兼は84歳にして入道し「剛忠」と名乗った。

・・・・それまでは(現役)髷を結ってたんだ・・・地毛だったのかな?(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

てことで次回から家兼ジーちゃんは「剛忠」です~それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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